Café Clown Jewel
ディフ
船の汽笛が聞こえる。
冬の夜だというのに、海の向こうの街は明るく光っている。
倉庫の並ぶ港の一角。どこからか車の走ってくる音も聞こえてきた。どうやら近くに止まったらしい。
ガラガラと倉庫の扉が開く。
そろそろ時間だ。
First Mission
暗闇包むその空間に、微かな月明かりと定期的に射し込む灯台の光。それと懐中電灯。
静寂の支配するその場に数人の足音が大きく響き渡る。そして足音が止み、コンクリートの地面を叩く金属音が一瞬。カチリという音。
場所は東京湾と東京の夜景を眺める事の出来る港の倉庫。時間は夜中牛三つ刻の二時丁度。ここに居るのはスーツの男が二人と、白い服の男が一人にその周りにスーツを着た男が二人と―――。
行われているのは、密輸取引。取引の品は開けられた金属のケースの中にビニールで包装されている。弱い明かりではそれが何かは良く判らない。
白い男、医者か科学者かと思われる白衣を着た男が、隣に居る一人に懐中電灯でその箱を照らすように指示する。
箱は白金に照り返し、ビニールは白く。そしてビニールの中は薄いピンク―人間の臓器の淡い―が伺える。
白い男はビニールごと臓器を取り出して、状態を確かめる。少し白い肌色のようにも見えるそれが肝臓だと判ると、箱の中に戻した。
箱は他に二つあり、それも同じように中身を腎臓、小腸と確かめる。
確かめ終わると、三人の内の一人が、持っているアタッシェケースから紙の束二つ取り出し二人の男に渡す。
手に取ったのが指定の額か吟味するのに三十秒ほど、紙幣の擦れる音が鳴り続ける。
大金は懐に納められ、箱は閉じられて、双方の商いが終わる。
五人は倉庫の入り口へと向かい始める。と、懐中電灯が、あらぬ方向を照らしながら地面に転がる。
埃が巻き上がると、呻き声と共に二つの箱が地面を敲き、同時に血と二百万の紙が舞い散る。
残ったスーツの男達が銃を取り出し安全装置を外す。
と、内一人には右にあった連れの倒れた姿が正面に映り、直ぐに視界が閉ざされる。
首が折れ、身体も折れていくスーツの背後から暗殺者が、白衣の前に姿を現す。それは・・・、
血のように赤いコートに長い髪の女性、右手には減音器の付いた深紅のベレッタ。
闇の黒に溶ける赤は生命を刈り取る死神のよう・・・。その禍々しさに白衣は地面に尻を着き、残った黒いスーツも後退りする。
赤は白に言う。
「あなた、平沼幹夫ね・・・」
血に濡れた鎌の如き拳銃を向け、更に言う。
「公私混同だけど、臓器密輸の現行犯及び私怨で死んで頂戴・・・」
死刑宣告が白衣、平沼に言い渡される。
それを告げる彼女の目は、躊躇なく残忍な眼差しを讃えている。確かに、殺す気だ。
銃口が向けられるも、白衣は震えながらも虚勢を張る。
「おお、おお前か!おれのっっ取引、を邪魔し、ってきたのはっ・・・!」
そう言われた彼女の顔つきが少しだけ驚く。
「・・・あれ、あなたの命令だったの」
表情は殆ど変えず、心中で納得して言った。
彼女は前にも何度かあった臓器密輸の場にいた。だから、答える。
「ええ、私がやった」
その答えに白衣は歯を軋ませ、赤い死を睨む。しかし、返ってくる戦慄の眼光に白もだが黒さえも動けない。
「じゃ、死になさい」
語尾が少しだけ韻を強く言い、彼女は引き金を絞っていく。
遊びの無くなる寸前、平沼が叫んだ。
「やれぇええ!」
土砂降りの雨のように、閃光と破裂音が倉庫内に木霊する。
倉庫にある荷に隠れていた者達が一斉にサブマシンガンを、彼女に乱射した。
それを機に白衣は直ぐに場を離れて、自分も荷の影に隠れた。
反応の遅れた黒のスーツと赤いコートが銃弾の雨の下に残される。
だが、この状況は、黒には兎も角、赤を身に纏う彼女には馴れた状況だ。血が付着しても目立たない、赤いコートであるが故に、これは何時もの事でしかない。
銃弾を浴びて、コートを自分の血で染める事がか?
否。
他人の血を浴びても尚、更に浴びるが為に―――。
右上のコンテナから一人、奥の荷から一人、その荷の左側から一人、扉の隙間から一人。
(たった四人か・・・)
飛来する銃弾が地面を跳ね、動けなかった黒いスーツに弾が被弾している最中、憂いていた。
彼女には銃弾は当たらない。掠りもしない。
振り向く、標準を合わせる、足の運び、その全てによって形成される動作の瞬間に弾を避ける。そして、撃ち出されている方向へと銃口を向け・・・、
放つ。
自分の後方にある入り口に、倉庫の奥に、左に、コンテナの上に、一発ずつ、それぞれの額を目掛けて銃弾を放った。
銃痕の転々とする倉庫の地面に、彼女だけ悠然と立つ。
「やっぱり、ツマラナイ」
感想を述べるまでもないのだけれど、彼女はそう愚痴った。
そう言葉を彼女が発している間に、白衣は足が縺れながらも、必死に倉庫の外へと逃げようとする。
それに気付くまでもない。
白衣は必死に逃げる。しかし、縺れた足が絡まり、前のめり滑るようにして扱ける。
直ぐさま立ち上がろうとするも、右足に力が入らない。
違和感に右太腿を見ると、赤い点があった。
「あ・・・・ああああああああああぁああぁああああ!」
遅れてくる痛覚を認識して、絞り上げるような声を発する。
転がる平沼に淡々と近づいくと、彼女は彼の腹を爪先で蹴り上げた。すると、平沼は蹴り飛ばされて、コンテナの側面にぶつかった。
胃と肺を圧迫された感覚に吐き気と痛みを味わう。叫び声は嗚咽に変わった。
「これはお返し」
彼女は平沼に近づいて、再び倒れた彼に銃口を向ける。
「さて、殺される前に色々吐いて」
「吐くって、なに、を・・・」
右肩が撃ち抜かれる。
「あぁああああああああああ」
「質問は私がしているの。あなたは死ぬまで一方的に答えるだけ」
彼女は残酷さだけを提示して、質問を繰り返す。
「じゃあ、尋問を詳しく言うわ。あなた達、医研が関連する臓器密輸、誘拐、及び殺人は十年前の『プロジェクト』の再発かしら?」
苦痛の中、平沼が答える。
「俺は、そうだ・・・。頓挫したあの計画を。完結させるのが・・・」
言い終える前に左足を撃つ。悲鳴が上がる。
「そう・・・。なら、死ぬ前にいい事を教えてあげる」
更に、左手を撃ち抜いて、更に悲鳴を上げさせる。
「あの計画が頓挫したの・・・・・・」
痛みに感情も身体も支配されているはずの、平沼の頭に、彼女の声が大きく響く。
「私がぶち壊したからよ」
彼の最後の最後の一瞬が、鮮明に刻まれる。
そして、叫んだ。
「お、おまえがマキナあぁぁあぁ・・・・!」
しかし、彼は最後まで叫びきれなかった。
引き金が引かれ、撃鉄が下り、遊底が止まって、銃の弾が撃ち尽くされた事を示す。
彼女はポケットから携帯を取り出して、何処かに電話を掛けると、「終了しました」と、だけ言って、直ぐに電話を切った。
深紅の銃身をコートの内側のホルスターに収めて、入り口の方に振り向く。
「その呼ばれ方、嫌いなの」
倉庫には黒い死体と、四肢と頭を撃ちぬかれ、赤く染まった白衣の死体が残った。
ドアを開くと乾いた錠の外れる音が聞こえてきた。
「ただいま・・・」
別にこの家の中に誰か居るわけではないが帰宅を知らせる。その相手は以前居たけどもう居ない。
また錠が音を出す。同じ音でも今度は閉める音を。
帰ってきたばかりの家はとても暗く、内装は分かっていても歩きづらいので電気のスイッチに手を伸ばす。
光が玄関と廊下を照らし出す。
自室の二階に向かいながら、羽織っていたコートと上着に見せた防弾スーツを脱いでいく。右足にベルトで止めてあるガンケースも歩きながら片手で器用にはずす。
部屋に入るとドアは足で蹴り閉めて、ふらふらとベッドへと歩み寄って倒れ落ちる。
「う〜〜〜んっ」
ベッドの弾力に顔を埋めて呻く。手荷物はポイ捨てしてベッドの下脇に落とす。銃は投げるわけにはいかないので、ベッドにある棚のスペースにそっと置く。
横目で愛用の目覚まし時計を盗み見る。
「もう3時」
あと4時間しか寝れないじゃない。と不満を言いつつベッドから起きあがる。
ポケットの中で携帯が着信を知らせて、振動していた。
誰からのとは確認も面倒だから、そくささ耳に当てる。
「はい」
取り敢えず、声を低く切り替えて対応する。
「任務御苦労だった。実にいい仕事をしてくれている。一人はヤリスギと思うが」
いがつい男の声が喋る。
「それはどうも。後処理はそちらでやってくれましたよね?指令」
「心配ない。死体は今頃豚の餌にでもなってるさ」
「進展はなにか?」
「まあ、まだ死体の持ち物やそれ自体から情報を解析中でな。明日、いや今日の夕方以降に知らせる」
「そう・・・。じゃあ寝ますね」
もう電話も気だるいから寝ることにする。
「ではな。私も眠いから寝るとするか」
耳元で欠伸をする声が聞こえた。だとすると、指令たる人物はまだ起きて仕事に励むに違いない。
欠伸は寝るための行為ではなく、脳が酸素を補給するが故に無意識に動物が行う、起きて活動するための行為だ。
寝ると言う事は、彼女の様なことを言う。緩いリズムで呼吸し、熱を逃がさないように布団に包まる。
(着替えるの面倒・・・このまま寝よう)
明かりだけは消すために起き上がって、消したら直ぐに倒れこむ。
まどろみに沈み行く意識の中で彼女はふと思った。
(今日は8人殺したのに、無感情ね。穂畝綾)
自分の名前を小さく呟いて、意識は直ぐに落ちていった。
甲高い目覚ましのベルが部屋中に木霊した。
クリスマス近くのこの時期。朝は冷え込んで、起きたくなくなるものだ。
包まった布団から手を伸ばして、目覚ましのボタンを探すが、生憎、手の届かない台の上にある。ベッドから少し離れた台の上に。
亀みたいに顔も布団から出して、虚ろな眼差しで目覚ましを睨み、手を伸ばす。
「ん・・・・、っぐふ」
目覚ましを止めようとして、体が床に落ちた。それを嘲笑うかのように、ベルの音が鳴り響く。
「む」
取り敢えず、憎たらしい目覚ましのベルを起き上がって消す事にした。
「・・・撃ち抜けばよかった」
勿論、目覚ましが壊れるからする気はない。
「うぅーーーんっっちじかぁーーー」
時計の針を見て起きる事にした。部屋の中は冷えているけど、負けじと背伸びをして睡魔を飛ばそうとする。
「さぁっ―――ぶっぃぃいいいっ」
シンと冷えている寝室。
今度からカーペットの敷いてある、床の間にでも寝ようかと思ってしまう。
「寝不足・・・お昼寝したいわ」
せめて、あと三時間は寝たいわと呟きながらベッドから降りて着替えることにする。
服も氷のような冷たさに成っていて、着替えに悪戦苦闘。終えた頃にはスッカリ目が覚めてしまっていた。
(うぅ・・・さぶい。ご飯食べて、仕込みしないと)
自分で自分の肩を抱いて、おずおずと台所に向かう。
穂畝綾の仕事は自営のカフェ。
今は無き、育て親の老夫婦に代わって店の経営を続けている。店と自宅が同じなので、店を継ぐのと同時に家も相続している。
小さな店ではあるものの、ここ浮遊島ができて間もない頃から建ち並ぶ軒の一つであり、近くに大きな学園があるので、そこから大学生達が幾人か通ってきていたので、今の今まで安定して経営を成り立たせてきた。
無論、彼女もこの店を潰す気はさらさらない。それは彼女が老夫婦に対しての精一杯の感謝であり、贖罪なのだ。
血の繋がりがない。綾は元々孤児だった訳でもないが、ある日に拾われたのだ。
厚顔でいい人柄の夫婦は子供がいなかったので、より綾はかわいがられると同時に、綾もそのお返しとして、カフェの仕事を手伝う。
そうして数年立つと、彼女も二十歳を越えて大人になり、店の経営、飲食物の扱い、調理、お客への配慮と色々身についていた。
若い跡取りが出来たことは、老夫婦にとっても喜ばしく、誇りであった。勿論、彼女自身もそうなれた事に嬉しく思った。
けれど、喜びを分かち合う時間は長くなく。
老夫婦は買出しの途中に交通事故に遭い、不運に二人とも助からなかったのだ。当時の綾が成人式を終えて間もない頃に―――。
そして今は二十三歳になり、ひとりで喫茶店も順調な軌道に乗せている。
それと共に今ではもう一つ仕事をこなしている。それが夜の仕事である。
国際特別任務機関。略名S.I.S.O.
不可解な事件、通常の法では取り締まることの出来ない事や裏世界の蠢動を治める世界機密の巨大組織。その支部があるこの浮遊島の一動員として、不定期に活動している。
彼女の仕事内容は主に処理で、密輸の取り押えや、凶悪犯の抹殺など。最も危険で最も残忍な仕事を任されている。しかしそれは彼女が望んでやっていることでもある。
それは自身の復讐の為―――。
ドアを開けると乾いた鐘の音が発つ。
店を開ける前に扉と窓を開いて、換気をしながら掃除をするのが、朝の準備の一つだからだ。
床に掃除機をかけて、バケツに水を汲んで雑巾で窓枠やテーブルと椅子の脚を拭く。
「うぅ・・・冷たいぃい」
冬場なので水も絶対零度になっているように思うほど、痛い位に冷たい。0℃よりは摂氏があるのだけれども、雑巾を一回絞るだけでも相当手にダメージが来る。
でも、我慢してそれを行って店内の至る所を水拭きしていく。
何度かしているうちに、冷たさに慣れていくけども、赤くなった両手の指を見ると痛々しさが募る。
皸に成らない様にハンドクリームを後で塗ろうと思いながら坦々と掃除をこなす。
テーブルも、ここは清潔な台拭きで、水拭きして一つ一つ綺麗にしていく。
「ふうっ・・・。これでよし」
一通り掃除が終わる頃には換気も十分に、三十分ほどしているので店内も外と同じ寒さになっている。
それだと冬場に客を招くことは難しいので、扉と窓を閉めて暖房を入れる。そうして冷えた空気が徐々に暖かくしていく。
でも、綾の手は冷たく赤いままなので手を擦り、息を吐きかけてはを繰り返しをしながら、少量のハンドクリームを掌に馴染ませていく。
貧乏臭いと自分で思いながらも、誰も見ていないので気にせず。
今度は仕込みを有る程度しておく。
喫茶店である故に、その代名詞たるコーヒーの豆を焙煎しておく。とは言っても機械が自動で煎ってくれるので適量豆をぶち込むだけなんだけど。
あとは日替わりサンドの中身をザックリ切り分けて、数個のサンドイッチを拵えておく。たりなくなって来た時はその都度作るとするので、大まかに数を作っておく。
「準備はこれで終わりかな」
豆も煎り終わり、後は開店を待つだけ。少々時間が余っているので、寝不足を解消したいところな彼女だが、無駄に寝つきはいいと自負しているので寝過ごす確立が大きかったりする。
開店は十時で今はまだ八時半過ぎ位で。
「一時間半は寝れる。けどね・・・」
残念ながら、綾は寝過ごす自信がやっぱりあるので、しぶしぶ諦めることにした。その代りに、今日は早めに寝ようと思ってたりする。
それも、今日の夜に特務の仕事が入らなければだが。
不定期な仕事なので、毎度毎度暗躍する訳ではないけれども、事の進み方によっては働きっぱなしって事もしばしばある。綾も一度、一週間ほど殺人鬼の捜索をさせられた事があった。
勘弁してほしい所だったけれど、放置する訳にも行かないので、目尻に隈をつけて夜の街を徘徊していた。
そうなるかは指令の指示次第で、昨日に一仕事やっているので、ゆっくりできると期待することろだ。
けど、それ以上に寝ていないのは指令だったりするのかもしれないと、彼女は思う。
特に今回のヤマは大きくて、彼是と表からも裏からも手回しをしないといけないらしい。夜の密輸を邪魔したのもその一つで、綾はこれにかり出されたわけである。
さて、時間が有る分有効に活用したい。
どうにもやる事がありそうでないので、思いつく事を言ってみる事にする。
「寝る、だめね。散歩、外は寒いし・・・。洗濯もの、もうしてる。読書、寝ちゃいそう。家の掃除、一番これがいいかな。クリスマスの準備、・・・・何か虚しいかも・・・」
色々と考えた結果、家の掃除をする事にした。丁度掃除機も手近にあるので、一階の廊下とキッチンを掃く。
一階はカフェとキッチンと風呂場で、二階は寝室と居間、他物置と穂畝家はなっている。一人で住むには広い感じではあるけれども、便利に何でもあるので気にしてはいない。ちょっと掃除が面倒ではあるけれども、ちょくちょくこうやって掃除しているので、彼女はあまり気にしていなかったりする。
一階の廊下に掃除機をかける。短い廊下なので直ぐに終わってしまう。続いて、階段を下から上に掛けていく。
効率的に掃除をするなら、順序を逆にするべきなのだが、面倒臭いと思ってしていない。
階段を上りきると二階の廊下も序に掃いてしまう。居間のコンセントからコードを伸ばしてやっているので、一通り廊下の掃除が終わったら、継続して居間の方にも掃除機をかける。
「結構掃除したかな?」
それでも未だに九時に至るまで、居間の壁に架かった時計の針は二分の三周ほどある。
「やっぱり、寝たほうが良かったかな・・・」
活動しはじめて大分時間が経ってはいるものの、睡眠欲を思い起こすとやはり眠くはなるのが人間らしい。
「よし!」
睡眠不足を若さで乗り切ろうと意気込む。
何もしないと、本当に寝てしまいそうなのだが、食器がそろそろ乾いてそうなので、一階のキッチンに掃除機をもって行くことにする。
シンクに置かれた食器乾燥機はすでに停止していて、中の物は全く濡れてはいなかった。
並べられている食器と調理器具の量は朝食に使ったものだけで、さほど入ってはいない。調理器具は調理器具の、食器は食器の収納場所たる棚や引き出しにしまうと、これだけで終わり。
勿論そんなに時間が掛かっている訳ではない。精々三分程度の作業なので、持ってきた掃除機のプラグをコンセントに刺し込んで掃除を開始。
障害物のない廊下や居間に対して、ここは椅子と食卓たるテーブルがあるので、割かし時間を食うかもしれない。
椅子を一つ一つ退かしては掃き、戻しては次の椅子を―――。少々面倒な事をしながら、確実に時間を消費していく。
そして終わった頃には。
「やっと四十六分か・・・」
カフェの開店は十時からだけど、やることも色々やったので。
「早いけど開店にしよう」
カフェ用の出入り口に行き、外に出ると冬の寒さが蔓延していた。
冷え切った[close]の木札を裏返し、
「ちょっと早いけど」
Café Clown Jewel
[Open]
開店前から並んで待っている客は、こんなたいそうな時間帯にはそうそういるものではない。
高校生は授業の最中であり、学生の大半も講義講習の席に着いて、社会人は名に有るとおり会社にて精を出しているものだ。
特にこの街をなしている島。浮遊島は東京湾に浮かぶ人工島であり、無論東京の都心からそれほど離れてはいないので、それなりに企業の建ち並ぶ都会ではある。ただし、地価は理由があって、日本の首都に近いにも関わらず割安ではある。
この島の創設は三十年ほど前、関東大震災が大きく懸念されていた時代に発案された。首都自然災害防衛の大掛かりなプロジェクトでできたものである。
関東大震災は、その時代に予測された日本に最も大打撃を与えるとされていた地震で、その比は先の阪神淡路大震災、新潟地震、福岡西府沖地震を合わせても同等には収まらないとされている。
東京都心壊滅
よもやその被害は創造を絶するといえる。東京都を地震が襲い、そればかりではなく大津波の発生にて、日本の中枢が根こそぎ流されてしまう。
人口密集地である為に死傷者の数も災害被害額も桁外れ。故にその後の復興は難しく、日本の国際的立場も危ぶまれる。余りにも多くのもが密集した土地であるが為に、壊れ始めたらドミノ倒しになる事は、あのビル群で思い描けることだろう。
全ての建築物を耐震構造にしようとも、地震の後に来る大津波はどう対処すべきだろうか。ビル二十階以上の高さの津波が東京湾を走って来るのは防ぎようがない。
故に、浮遊島がここで担う役割は、津波を受け止める役割があるのだ。
ただ単に受け止めるのでは到底役には立たないが、この島には津波を逆振動で起こす大きな装置が設置されている。それによって、来る津波の威力を減少させる事が出来る。
とは言え、国家資産を莫大に投じるだけでは、国籍を増やすばかりで芳しくない。
そこで、島自体を新たな日本の土地として使用すること考えられたのだが、如何せん売れる見込みはあるとは思えない。
津波を受ける島であるが故に、そこに住むことは、何時か津波を体験する事になり、それは考えるに島が沈む事でもある。つまり、浮遊島に住むことは死ぬことに代わりはない。と思われるのが、世論の考えであった。実際は浮いているのでこの島が沈むことは有り得なく、地震津波被災地候補の中で最も安全なのだが。
当時は売却の目処が立たなかったが、いざ大地震の襲撃が日本を揺るがすまで―――。
浮遊島の創設数年後。予期された事が現実となり、都心のビルとそこに集う人々を尽く薙ぎ払った。
救助活動に国の自衛隊及び医療団体が総出で、事態の処理に当たるも、地震のすぐ後に来る大津波の為に、些か対応が遅れ気味であった。
しかし、東京に津波が押し寄せることは無かった。
浮遊島のシステムが津波に作用し、巨大な波はほとんど打ち消されていたからだ。
津波による被害は最小で、港の破堤に潮が乗り出すくらいに留まった。
その報せが入る後の対応は早く、予想されていた負傷死者の数よりも少なくて済んだ。
経済の打撃は大きかったものの、津波による都心崩壊を免れたことにより復旧は早急に行われ、国の持ち直しは後数年で完了した。
そして、地価の下がった浮遊島に売却の目処が立ち、政府は買い取り主に島の利用権を完全に委託することにした。
それから今に至るまで、多くの開発と発展をこの島は遂げて、日本の領土の中でも独立したような新たな土地を形成していった。
ここには、住宅地、企業、貿易、教育機関、病院、研究機関などその他進展的な設備が整った、日本でも有数の都市となったのである。
One day 1
何時もの様に、そして、当たり前のように午前中はあまり人が来ることは見込めない。
特にオープン間際から並んで待つ客が居るほどまでに巷の噂が高いのならともかく、広くて大きな店舗でもないこの店にはそれ相応の人数が来てくれるだけ。
四人掛けのテーブルが五台とカウンター席が七席。収容人数二十七人とアルファ。
昼間には大学生と社会人が幾分か詰め掛けるので満席にはなるが、朝のオープンから一時間は疎らにしか客は来ない。
一応、このカフェを実質一人で切り盛りしているのだが、流石に昼だけは人手が足りないと思う穂畝綾だったりするので、ここに来る大学生を勧誘してバイトにしている。
そんなこんなで、経営を維持しているのだが、今はその忙しさが恋しい時分。
「お客さん早く来ないかな・・・。眠い・・・」
掃除などして動いていたものの、冷たい水で顔を洗ったものの、休日趣味の昼寝モードが発動しているのか睡魔が否応無しに付きまとう。
カウンターテーブルに頭を擡げて座り、朦朧とする意識と負け気味な状態である。
十五分ほど早い開店なので、十五分はこうしていられる。と言う、甘い考えの下に睡眠欲からの気怠るさを悉く体現する。
「このまま寝たいなぁ・・・・」
自ら惰眠を貪る綾には、睡魔の誘惑にあまりにも耐性がなさ過ぎる。
「せめて、三時間だけ・・・」
半分寝言を零しながら来客を、待っているとは言えない態度で待つのだった。
とは言え、そんなに現実は甘くないのが常。でもって、早くもお客さんは来てしまうのであった。
カラカラと音を鳴らし本日初めてのお客様の来店なのだが・・・。
「おはよう。あぁらぁ、今は就寝時間だったかなぁ?」
通常開店の三分前。いくらなんでも早すぎ。
「眠いの。あんたは何時も来ているから、わかると思うし・・・。自分でお冷注いで頂戴」
「ひどいな。まあいい」
と言って、背広を脱いで椅子に掛け、二人用の席に座る。
「一時間したら担当が来る。それまでには起きてくれよ」
少しは寝る事が出来るらしい綾だが、リミットは一時間もないようだ。
常連の客人は持っていたバックの中から筆箱と分厚い紙の束を取り出して、捲っては捲ってはを繰り返し、所々で赤いペンで何かを書き込んでいく。
いかにもここに慣れているらしく、店長の寝ぼけにも全くもって気にも止めずに、ひたすら仕事に没頭する。
まどろみでゆっくりと眠気が和らいできた綾の方も、紙の束が捲り終えられる頃には、コーヒーの準備に取り掛かっていた。
来客後三十分は経っているけど。
「こんなものかな。さて、ブレンドコーヒー頼むよ」
「まだお湯沸いてないから、暫く待って」
焜炉にヤカンを掛けて火をつける。コーヒーを入れる準備はしているけど、肝心のお湯の方は等閑だった。
「暫くこれで、我慢して」
そう言って、お冷の入ったコップをテーブルに置くと、向かいの席に彼女は座る。
「相変わらず暇で良いわね。小説家っての」
「そうでもないけどね・・・これでも忙殺ぎみだよ」
ふうんと聞き流して、自分の分のお冷を口に運ぶ。
小説家である由比島洋一はこのカフェで、執筆と編集の打ち合わせをしている常連である。
だが、他にもここに来る目的がある。
綾はコップを置き、鋭い眼つきで言を発した。
「で、私のやった件は?もうデータは持ってきているんでしょう?」
洋一は怖気づく事無く、しかし、言われたとおりの物を提示して見せた。
「これだ。取引内容と居合わせた人物のリスト」
そこに載っている名前の全ては既に故人であり、穂畝綾が屠った者の名前である。
由比島洋一も彼女と同様にS.I.S.O.のフリーエイジェントに属している。やる事は主にバックアップで情報を綾などの人に持ってくること。
Secret International special Organization
略称S.I.S.O.
世界各国に秘密裏に置かれる治安の組織とでも言おうか。多様化する犯罪と解決と法的断罪の効かない事件を処理するために有る組織である。その為、多少手荒な手段もとられてはいるが、例えそれが人を殺すことでも、この組織に所属する者なら当たり前の事である。
主に処理されるのは何らかの能力を使う犯罪者だが、今回のように表沙汰にし難い事も手掛ける。
「臓器の密輸取引・・・今回もってところだけど、何を計画しているのこいつら」
出された資料を人差し指で突付く。
「わからないね。密輸の売人はヤクザ絡みで、受取人は総合医療研究所の所員とそのPSさ。
平沼幹夫。君が撃ちまくった白衣だけど、あれは遣り過ぎじゃないか?」
「いいの。私にはあいつ等にやらないといけない事があるから。あれは仕返ししたかったから苦しませただけ」
そう言って、綾はまた口に水を含む。
「いいけど、余り先走りするな。君の復讐は確かにこれで出来ると思う。だけどあくまで処理の一環に過ぎない」
わかってると吐き捨てる綾に対して、洋一は更に話を進める。
「総合医療研究所。略称、医研の研究内容については未だに調べている途中だけど、この所頻繁に臓器を密輸しているのは確かだ」
医研とは、表向きにはだが、医学の進歩の為に医師の資格を持った者達が集まり、医療科学に関するあらゆる研究を行っている所であり、この浮遊島に今は拠点がある。
その功績は近年目覚しく、創設者たる人物は、脳外科の分野において世界的に有名になる名誉があるほどだ。
しかし、その世間体に関わらず、臓器密輸は愚か、誘拐した人間を実験に使っているらしいとの情報もある。暗部は限りなく黒だ。
もし、最先端の医療を研究する医師集団が、重犯罪を繰り返している事が露呈すれば、世間の混乱は避けられない。だからこそ、綾たちが医研を秘密裏に潰す必要があるのだ。
綾から資料を戻してもらい、又読みながら話を続ける。
「平沼は恐らく、臓器関連の研究でも移植手術に関する研究でもしているのだろうね。有る程度はこいつの情報が上がっているけど、大学時代に循環器官の医学を専行していたらしい」
「つまり、それらの移植があれの専門てこと?」
死んで人ではないモノは、綾にとってはどうでもいいのだろう。
洋一もその点に関心は無く、死んだモノよりも死んだモノの詳細を述べていく。
「未明の取引だけど、中身は内臓。小腸、肝臓、腎臓、この三つ。臓器の中では比較的に移植がしやすいし、保存もそれなりにできる。食道器官である小腸については平沼の専門ではないにしろ、肝と腎の方はその中に含まれる」
「ふうん。人のでモツ鍋でもするつもりだったのかしら?」
「素敵だな。人食主義。でも、俺は願い下げだ」
モツ鍋は好きじゃないと言う、九州生まれの洋一だった。
「悪趣味な事ね。医研・・・、臓器なんて集めて何する気なの・・・」
曇る表情に顔が陰るならまだしも、彼女の影の指し方は明らかに憎しみから来るもの。強い憤怒と憎悪が滲み出ている。
医研の事になると何時もこんなのは、もう見慣れた洋一にはどうってことはない。彼もまた非情であるべき物の一人なのだからだ。
「概要は判らない。けど、臓器目当てに密輸取引や殺人に誘拐。調べで絡んでくるのは医研。
日保ちしない心臓や移植の難しい肺は、施設内で生きたままの人間から、採取している可能性も大きい」
テーブルの上にある綾の手が強く絞まる。それでも彼は続けた。
「医学会に多くの功績があそこから揚げられているけど、手段を選んではいない。前から憑き物が多いのも変わらない。これだけぼろを出してきたんだ。何か有るのかも知れないが」
「そうね。そしたら、もう直ぐ・・・潰しにいける」
負の光を放つ瞳を怯む事無く受ける。
「そうだ。手段はこっちも選ばない。ただ」
忠告は必要。でないと、彼女がどう出るか判ったものではない。
「今は待て、直に調べがつく。それまでは独断で走れはしない。それが掟だ」
力と息を抜いて、
「わかってる・・・」
綾は何時もの彼女に戻った。
カラカラとヤカンからお湯の沸いた音がする。
サラサラに挽かれたコーヒー豆にお湯を注ぐ。
立ち込める蒸気に、焙煎された豆の香りが芳しく立ち込める。
お湯は粉状のコーヒー豆の中を通って、一滴一滴、下のビーカーに注がれていく。
綾にとってこの時が一番落ち着く。
ふわりと鼻を撫でる、入れたてのコーヒーの香り。ゆっくりと染み込んで行くお湯。ビーカーに抽出されたコーヒーが徐々に溜まっていく様子。
仕事としてこの作業をしているけど、これだけはゆったりとリラックスしているように思えて、そこが素敵だ。どんなに忙しくても、これで安らぐ。
「今日もいいできね」
美味しいコーヒーの入れ方は、養父に学んで何年も実践している。
カップにコーヒーを注いで、受け皿に。シュガーとミルクも添える。
「お待たせ」
「ありがとう。後で担当の分も用意してくれ」
「わかったわ。追加があったら言ってね」
綾はキッチンに向かい、次に来るお客様への準備をすることにした。
洋一は相変わらず、分厚い紙の束に目を通していた。
まだ売れ始めの小説家である彼の手には原稿。
自分の書いた小説を見直して、誤字脱字、及び文章として引っ掛かりのある所を見つけ、訂正、書き足し、削除、改行などをしていく。
公に出すものなのだから、ちゃんとした物を出さなければ認めてもらえないし、その前に編集会社に受け取ってもらえない。
小説家はゆったりしている気もするが、そんな事は無い。
毎日締め切りに追われて、多忙な生活を送る。
そうそうサクサクと文章が書けるようになるにも、色々調べ物をして情報を集め、ちょっとした移動や休みの間も、話を作るためのネタを考えては探してはを自然と行う。
パソコンの前でタイピングと格闘したり、原稿用紙のマスを埋めて行ったりの作業も、書く量が半端じゃなく多いので結構辛い。
でもって、今彼が持っているワード出力の原稿も百枚を有余に越す量だったりする。
「ねぇ」
キッチンスペースから綾が呼びかけてきた。
「ん?」
「それ、書くのにどれだけかかるの?」
分厚い紙の束を指し、ちょっとつまらそうに聞いてみる。
「これ?そうだな・・・一枚三十分として、二枚で一時間・・・。これが約百二十枚だから、六十時間。と、資料集め、プロット作成、設定とかも色々しないといけないから、九十時間いじょうかな・・・」
「大体、何日くらい?」
「たしか・・・二十日かかったかな。他も平行だから結構忙しい」
ちょっと驚いた表情を綾がする。
「暇そうに見えるけど、そうなの?」
「そうだ。これに足して裏仕事だから、そんなに暇じゃないぞ」
洋一は不満な顔色をチラリと見せる。それだけで直ぐに元の顔つきに戻る。
カラカラと入り口から音がなる。次の来客が来たようだ。
「いらっしゃいませ」
洋一が手を上げて、こっちですと誘導する。
どうやら編集の担当らしい。
彼は綾に先注文していた、コーヒーを出すように促し、それに答えて準備していたものを直ぐに出した。
飾りの時計を見ると、もう十一時過ぎていた。
これからカフェに少しずつ人が増えてくる。
ランチタイムに向かうにつれて、綾も忙しくなっていく。
クリスマス近くとは言え、働く人がいなくなることは無い。無論、そうなると食事時に、食事所に人が集まるのは当たり前である。
このカフェでも人が多く集まり、昼食を取る社会人、主に若い女性客が多い。
カフェの特徴として軽食なので、体重を気にしやすい女性に支持されるのもあるが、コーヒーの成分に含まれるカフェインで、この後の午後の仕事で眠くなるのを防いでくれる。
その他にも胃液分泌の促進による消化補助やら、脳内の血流を良くする。ボケやパーキソン病の予防。血中コレステロール値を下げて動脈硬化を防ぐ。などなど。
健康にやさしい飲み物であるではある。
けど、飲みすぎには注意。何事もやり過ぎるのは毒だ。
そういった理由で、周辺で働いている人々に、この喫茶店は利用されている。
また、浮遊島で唯一の教育機関たる恒明学園にも近いため、そこの大学生も昼時に利用する。
高校生なども来るけど、昼間には滅多にくる事は無く、主に夕方あたりだ。
そんな利用する学生を何人かひっ捕まえて、昼の忙しい時間、十一時から二時までを主にして、バイトをさせている。
綾曰く、それは強制じゃないので悪しからずらしい。
昼飯抜きに働かされる挙句、空腹に耐えながら働いている側には、むしゃむしゃと胃を満たす音で苛まされる。腹ペコ学生には精神的にダメージの大きい職場かもしれない。
そんな腹ペコ学生の一人と共に、今日も忙しいランチタイムの労役に勤しむ綾だった。
「エクス一つ、ブレンド二つ、カフェオレ二つ追加」
「了解」
バイトの子が注文を受けて、勘定に廻っている間に、綾はひたすら湯を沸かしては、コーヒーを作っていた。
入れ方の違うものを三種三様にしなければならない、こういった注文は面倒臭いらしく、
「こんな注文しないでよね・・・」
とか愚痴を零しながらも、両手でヤカンを操ったりしながら、量産的にコーヒーを製造していく。
こういった忙しい時には、ゆっくりと香りを楽しむことはちょっと無理だ。
「ありがとうございました」
とお客様を送り出した矢先、
「いらっしゃいませ」
次のお客様をテーブルへご案内。
この状況が十二時から一時過ぎまでリピートする。
一番の稼ぎ時であるこの時間は、皮肉にもそして当たり前に一番疲れる時間である。
綾は勘定とコーヒーを作るなどのキッチンスタッフ担当。
バイトの子は片付け、注文取りなどのホールスタッフ担当。
忙殺の名の下に、今回は二人で店内を奔走する、昼食時であった。
二時近くまでこれを続けていると、注文も疎らになって、大分楽になった。
「大分減ってきたわね」
「そうですね。そろそろ大学に戻ります」
昼からの講義があるらしく、バイトの子は作業着を休憩室に着替えに行った。
ここからはそんなに客足は伸びる事は無いので、綾もそれ程忙しくはならない。
二人分の仕事量を先ほどからやっているので、この後は一人でも全く問題ない。
ジリジリジリジリジリジリジリジリ
店内に置いている電話が鳴る。
別に宅配を受けるためにある訳ではないけど、仕入れ先からの連絡や、バイトの子との連絡などもあるからだ。
他にも常連さんが待ち合わせの為に席を予約する事も稀にある。主に由比島洋一とその編集担当なのだが。
「はい。Café Clown Jewel です」
職場なので、こう答えることにしているものの、綾はこの店名が相手にちゃんと聞き取れているか、少々不安になる。
「最上だ」
夜中に聞いた、いがつい声が聞こえた。
この地区のS.I.S.O.の支部で指令官を勤める男の声。
故にこれはあるはずの無い宅配注文ではなく、次の暗躍命令だろう。
「かしこまりました。何時ごろにお越しになられますか?」
この注文内容を予約内容の話で誤魔化し、裏仕事の依頼を確認する。
こう言った時に、自分の鋭くなる眼光を抑えるのに苦心する。周りに悟られなくするのは義務なのだけれど。
「今夜0000時。商業区にある建設途中のビルにてE・・・。詳細と場所はメールで携帯に送っておく」
「かしこまりました。お待ちしております」
「健闘を祈る」
ブチッ・・・・
ガチャリと受話器を戻して、溜息を漏らしてしまう。
今日も今日とて、裏仕事。寝不足になりそうな予感は明日も続くだろうかと、思ってしまう綾なのだった。
「仕事ですか?」
「残業が長くなりそう・・・」
「・・・ご苦労様です」
実は今日のバイトの子も同業だったりするのだった。
この電話で一気に疲れが押し寄せた気がした。
連日寝不足になるような依頼をする指令に対し、恨めしく思う綾なのだった。
夜十時、明日の下準備と軽い掃除を終え、寝室にてメールを確認する。
任務E
12/23/0000
添付された地図に印された場所にて遂行。
密輸を取り押さえ、処理。及び、標的の確保。
標的/取引のブツ
今回回収は其方に任せ、遺体は放置し、相手の出方を見ることに決定。尋問できるならば、可能な限り情報を回収すること。
押さえたブツは支部に持ってくる用に。
銃器の使用及び殺人を許可。
以上
こうも易々と殺人権を執行させていいものなのか、と思うところだが、裏の世界に一般も常識も有ったものじゃないので、こうでもしていないとどうなるか分かったものではない。
油断すれば、死ぬかもしれない。死んだ方がマシなことにも成りかねない。
非情にて残酷な話ではある。
「時間はまだ有るかな・・・」
ある程度早めに場所に行って待機をするべきなのだが、綾は風呂に入ることにした。
でないと、何時はいる事になるか判ったものではない。
「朝に余裕あったらシャワー浴びよう」
今日一日の汗と任務の不安を流しにいく。
Second Mission
日付の変わる少し前。
そこは圧倒的な闇に支配されていた。
建設途中のビルの中は不気味なくらいに暗く、電気の配線もされていないので、灯りをつけることはできない。
他のビルやら、外からの光が窓際を淡く照らすだけで、無骨な内壁に立つと見えなくなりそうな程の暗がりが支配している。
空調も見込めるはずも無く、冬の軋む寒さがビル全体に充満していて、そればかりではなく、冷えたコンクリートが氷の様に冷気を帯びていて、なまじ外よりも寒く感じる。
東京都に属する島では都心に近いとは言え、実質的に土地として機能して二十年足らず。商業区と言われるここらには、進出してきた企業の建設途中ビルがちらほらある。そういった所は、秘密裏な事には向いていると言える。
もう直ぐここで違法の取引が行われる。
密かにビルに侵入した綾は、物陰に隠れて、赤黒いコートに身を包んで闇に埋もれいていた。
(さぁあむいいぃ)
コートの中で身体を摩りながら、体温を保っていた。
特に指先を丁寧に暖める。持参したカイロがなんとも頼もしく思う。
迎撃に拳銃を使うにも、指が動いてくれないことには、無駄に等しい。向うも少なからず武装しているからには、一瞬の賭け引きが命取りに繋がる。
目には目を、歯に歯を、銃刀法違反には銃刀で裁きを。つまり、そういうこと。
(ぅぅう・・・早く来ないかしら・・・)
寒さに耐えながら、切実にそう思う。
港倉庫の時は、倉庫の壁が冷気を遮断していたから、まだマシだった。
けれど、今回は冷え切ったコンクリートの支配するビルの中で待ち構えているので、コートを羽織っていても堪えるものだ。
こんなときに時間はなかなか進んでないように思えるもの。精神的に痛い。
カツカツカツカツカツカツカツカツ
ここよりも奥に響く足音。
下の階だろうかと判断し、普段の頭を残酷なる回路に繋げる。
そして、暗歩し始めた。
カツカツカツカツカツカツカツカツ
複数の足音が廊下に響く。
社員もない、機材も無い、お金も有る筈の無いこのビルに警備員が巡回している事はある訳が無い。それこそ、泥棒もここに来る意味は皆無である。
綾がここにいる理由と複数の足音がなる意味。
―――― 密輸取引。
医研の不正な取引がここで行われる。
誰がそんな情報をどうやって仕入れたかは分からずだが、真の情報らしい。
今回も臓器関係だろうと思案しながら、足音に近づく。
足音の主たちは無音の暗殺者には気づける程に卓越してはいない。例え、自分達以外にこのビルに後一人だけ、その背後にいようとも。
小さなペンライト一つで、灰暗い廊下を照らして歩いていく黒い身なりの者ども。その内の一人が円柱形のケースを運んでいる。
程なくして、ある部屋に辿り着いた。社長室と呼ばれるそこが取引の場所なのか、黒の者達はその中へと入っていった。
綾は社長室にドアの取り付けてない事により、前行く影に紛れて、中へと忍び込み、また暗がりに隠れた。
造りかけのビルなのに、社長室だけは殆ど完成に近い状態にあった。広い室内に、外を一望できる大きな窓。床一面に敷かれた絨毯の上に重厚な机と椅子が置かれている。
その座に社長とは見て取ることのできない、白衣の男が鎮座している。
(医研の・・・・)
取引主だろう。黒の者達が持っているケースがその品だろう。
(中身は臓器なのかしらね。・・・けど、)
一片程の疑問では有るが、気がかりな事を考えた。
(過去の再来をしていた平沼を殺したのに、まだ取引がつづくなんて・・・)
部屋の隅に隠れながら、コートの中から銃器を取り出し、奇襲の準備をする。艶の無い黒一色のベレッタの安全装置を弾き、頃合を読む。
「依頼料は持って来ているだろうな」
交渉開始。
ケースを持った男が啖呵を切り、交換に応じるように白衣に迫っていく。
「持ってきているとも。・・・・ほら」
椅子の横に置いていた、アタッシェケースを机に上げて、中身を晒して見せた。
アタッシェケースの中には隙間無く、福沢諭吉の顔が敷かれていた。二列三行四段としてその束が並んでいたとして、千八百万円ほどだろうか。
(そんなに高い臓器ってあるのかしら・・・)
今回の取引が高額か、重要かと思案しつつ、綾はその万札の束に違和感を覚えた。
「これで満足かな」
白衣はケースにロックをし、カギと共に黒衣に差し出した。
「・・・・」
黒の男は無言で手持ちのケースを机に置き、アタッシェケースとそのカギを手に取った。
「もう用は無いな」
他の連れにも、帰るよう指示して即部屋を出て行くつもりらしい。
警戒している。そんな気が三人の黒から滲み出ていた。
「お前ら――医研と関わると、よく死に目に遭うそうだからな」
白い笑みに背中を向けて吐き捨てる。
今回も勿論。
「死に目に遭わせてあげる」
開幕宣言と共に、三発。
脳漿をぶちまけた人間が、三人。
警戒していた割には手応えも歯応えも無い、そんな何時も通りのエキストラの幕切れ。
「あっけない」
独り言洩らしつつ、今回の死刑囚に銃口を突きつける。
今から殺される。そんな状況なのに、白い笑みは薄らいでいなかった。元から、事前に、予想されている事態というように。
こちらが優勢と言わんが如く。
「あっけないかマキナ。なに、これからさ」
椅子から立ち、月照らす窓辺に歩いて見せた。
銃口がその頭を捕らえているのにも拘らず。
「昨日のとは違って、随分落ち着いているわね」
綾の質問に対して、ああ、と肯定する。
「平沼、君がやったのか。私も彼のように殺すつもりか?」
「お望みなら、要望通りに処刑してあげる」
「ああいいとも。わたしは死んでもかまわないのだがな・・・」
月光に照らされた、男の顔は老いて、無気力で、覇気の無い、死に近いそんな顔をしている。
死ぬことを悟り、殺されることも厭わない。そんな顔をできる心理はそうであるのだろう。
(唯、殺される気はないみたいね)
仄かな、それでいて濃厚な殺気を肌に感じつつ、周りを伺う。
社長室。五十畳は有りそうな広い部屋。大きな窓と壁にはドアかクローゼットのようにスライドすると思われる。別の部屋に繋がっているのかもしれない。
そんな部屋には第三者たる綾を除いて、白衣と黒衣三人の死体。生きている者だけなら白衣しかここには居るべき人間は居ないと言える。不法侵入者であることでは誰もが居るべきではない事は置いておくとして――――。
しかし、今まで綾達――S.I.S.O.――が密輸を妨害してきたと言うのに、前回も取引の両方にガードがついていたと言うのに、今回の片方にもそれらしく三人組みで来ていたと言うのに、白衣、つまり医研の者がたった一人で取引に来るだろうか。前回の取引でその仲間に当たる男が殺されているのを知っていて、果たして身の安全性のない取引をするだろうか。
(それは、思うに・・・・ってことかしら)
綾が気付いた点はその他にもある。一つは取引に行われるのがこのビルである事は良しとしても、この部屋つまり広い社長室である必要が有るのかと言う事。二つは複数の足跡が絨毯に見られる事。その数はここに入ってきた人数を上回る数の足跡であるのが、暗視の利く綾には見える。
つまり。
銃騒音が響いた。
壁と壁との間、扉と思われるその隙間、部屋の壁の両側から幾つもの破裂音と薬莢から放たれる光が出ていた。
狙いはどれも綾。両側から三発ずつの計六発が的確に彼女を襲う。
綾は部屋の中央に居て、ここが広くても、壁まで距離があるといっても、ハンドガンでの射撃有効範囲にあり、音速を超える弾丸にすればその距離も意味を成さ無い。事先に気づいていたとしても、六発の同時射撃が避ける事を許さず、況して防ぐ事は不可能だ。
穂畝綾は死ぬ。これで死を免れたとしても、銃弾を浴びて尚動く事はできる筈も無く、次で確実に殺されるだろう。どっちにしろ、先刻殺された三人の様に、頭を打ち抜かれてしまえば死ぬし、身体に六つも穴が開けば致命傷だ。
不意に撃たれる事は予測していた。
撃ってくる場所も把握していた。
撃ってくる瞬間も悟っていた。
しかし、常人では如何する事もできない。
常人で無いのなら、
避けてみせる。
同時に六発撃っていたように見えても、事細かには全弾の発射に、コンマ数秒のタイムラグがでる。弾速も銃の種類、弾の種類、手入れの状態により変わってくる。故に相手に着弾するまでの時間が変わり、その為、六発の弾と弾との間に空間が生じ、何処を狙うのかの誤差でもそれができる。
その一瞬にも満たない隙を縫って、身体を微動させるだけで、一歩もそこから動かずに綾はかわした。
避ける刹那の刹那をスローモーションで見れば、彼女は大きく身体を上下左右前後に動かしてはいるものの、動体視力の良さに関わらず、その動きを追える者はここには居ない。
綾の身体をすり抜けたかのように、弾丸は全て直進して壁に着弾した。
闇討ちが失敗し、隠れていても危険であると判断した六人は、クローゼット等の扉から出てきて、臨戦態勢に入った。
身なりはまちまちだが、殺しのプロか軍人流れだろう。
予め決めていた動きで統制を取り、チームプレイで制圧する気だろう。姿を現すなり、其々が順当に動く。部屋が広いとはいえ、防弾しているとはいえ、非防御部に被弾する可能性は無いとは言えない。
綾はそれが整うのを待った。
余裕からではなく、より確実性を高める為に。
「流石だね。銃弾を避けるなんて、人外な事をする」
そう言う白衣に返して、
「人の道踏み外した事やっている、あなたたちの方がよっぽどよ」
と言った。
「それもそうだな」
「六人もお抱えの殺し屋呼んで、そんなに邪魔されたくないって事?」
「今まで散々されてきたから、実力行使に走っているわけだ。医研にしてみれば、今が肝心な時だからな。もっとも、わたしがよんだわけではないが・・・」
今までの取引の頻度からそれは確かだろう。
色々と思案が浮かんでくるが、それらの事は今は置いておくことにした。
「兎に角、こいつらを射殺して、残ったアンタから医研の企みを聞き出せばいいってことね」
コートの裏に忍ばせた、もう一丁の拳銃取り出し、二丁の黒いベレッタを下手に構えた。
敵対する白衣以外の殺し屋六人は既に身構えている。得物はバラバラだが、全部銃器である。
白衣の皺寄った手が綾を指す。
「いけ」
気だるく短い布告と命令にて、殺し屋たちが動いた。
白衣に近い三人が連射して牽制弾を放つと、他の三人は綾の動きを見計らうようにして、射撃を行う。相手の動く先を突く戦法なのだろう。
「どうってことないわね」
つまらなそうに、平然と牽制の銃撃を避け、さらに飛んでくる弾を避けて、余裕に右手の銃を廻してみせる。
その間隙に連射していた一人が後ろに傾く。後ろには大きな社長机があり、その角に頭をぶつけ、溢れる血で机を汚しながら倒れた。
「遊びにもならないか。素人すぎ・・・」
悠々と銃撃の中、挑発し、対峙するもの達を困惑させた。
一人を遊び感覚で撃たれたトリックショットで殺され、恐怖が辺りを一瞬走る。
その恐怖で飛んでくる弾道がぶれたのを見て取り、綾は異常な速さを持って十メートル近く離れた壁際に中央から瞬時に動いた。
壁際の一人をゼロ距離で顔面を撃ち壊して、遅れて飛んでくる乱射の雨に遺体を晒し、自らは壁を蹴って、天井に足を着ける。
逆さまながら、安定してその場から連射する二人を左右同時の射撃でヘッドショットした。
天井を蹴り、床に降りようとする。
その無防備な刹那を逃すまいと、残っている二人が空中に居る綾に乱射した。コンマ数秒で着地するとは言え、その間に飛んでくる弾を防ぐのは難しい。
しかし、綾は弾が届くよりも早く床に着地し、着地直後を狙った弾は驚異的な彼女の射撃技術によって、相殺――飛来する弾を撃って弾道を逸らした。
着地の硬直をもろともせず、瞬時一人の懐に入り、顎下に銃口を突き付けるとトリガーを引いた。
顔の穴という穴と頭頂から散布する血を避け、最後の標的を睨んだ。
最後に残った事で、多大な恐怖を感じている事だろうが、逃がす気はない。
右手に持っている打ち止めのベレッタを投げつける。
逃避も攻めもさせない為の牽制であるが、いきなり飛んできた銃身に反応できずに、顔面受けしてしまい、呻く。視界が回復しかけた時には標的を見失っていた。
肩を背中から掴まれたと感じる。序、目の前の空中に血華が咲き、すぐに視界がブラックアウトした。
心臓を背中から打ち抜いき、崩れる筐体を後ろに投げて加虐にも頭を打ち抜き、床に血花を散らす。
始末すべき最後の一人に向かい問う。
「こんな奴らで、私たちに刃向かう気だったの?」
綾の言う、私たちとはS.I.S.O.の事である。
S.I.S.O.の構成員。特に、荒仕事を任されている面の殆どは何らかの力を持っていたり、特化したところがある。法で裁きようの無い犯罪者を根絶やしにする為、または、そう言った者達を傘下に引き込んで行った為に、所謂、超能力者と称される者達の巣窟である。
とは言え、意味合いを吟味すれば、まだ他の事も言えてくるだろう。逆接には人の道から外れた超能力者達を殺す機関でもあるのだ。
そして、綾もその死刑執行人としての力を持っている。
「そのつもり、だったんだろう。連れて来たのは上の指示だったからな」
飄々と白衣。
「上?医研で貴方より上が居るって言うの?医研所長の浅崎禎明」
彼女がたまたま知っている、または、S.I.S.O.の資料から知った訳でない。この白衣の初老は有名であるのは確かなのだ。
浅崎禎明。総合医療研究所、略称医研の現所長を任とする男であり、脳外科の技術を知識の面から開拓した第一人者。医研の創設者でもある男だ。功績の大きさを讃えられていて、医学や知識人には有名なのだ。
「わたしが、所長だからと言って、あそこで最も権力があるとは言い難いぞ・・・。それに、わたしは君のことは知っている。こんな無駄な犠牲をだそうとは思わない」
疲れた笑みを絶やさず、坦々と語る。
「私の何を知っているってわけ?言ってみなさい」
綾も高圧的な態度で臨む。相手が自分の何を知っていようとも、医研の犯罪者は殺すだけだ。
「十年前のプロジェクトによって生み出された。それが君だろうマキナ」
浅崎が呼ぶ名を拒絶する。
「それ以上喋らないで、その言い方されるの大嫌いだから」
荒げた声を叩きつける。そんな事をする意味はないのだけれど、感情が高ぶってしまう。
落ち着くよう自分に言い聞かせ、綾は詰問を再開した。
「あのプロジェクトは貴方も参加していたの」
浅崎は黙秘する気はないらしい。自分の語れる事、答えられる事に全て応じるような雰囲気でもある。
「その研究の惨禍では無かったが、今はこの有様だ」
「どういうこと?」
「あの研究は医研の中でもグループの違う者達のやっていた事で、わたしの属するグループの既知の外だった。が、今は、医研全体の主体みたいに成ってな。わたしの専門分野も必要と相成って、無理矢理の参加を推されたわけさ」
「じゃあ、初めから知っていた訳ではないのね」
「ああ。数年前だ。事によれば、創設以来から研究されていたらしいが・・・」
「首謀者は創設以来から医研にいる人物ってことなのかしら?」
推測を綾が示してみる。しかし、それに対して浅崎は頭を振った。
「昔はそうだったが、今は違う」
「平沼が研究を後継したってこと?」
「違う」
否定された事で、綾は何か食い違いがあると思った。
浅崎は詳細を切り出してきた。
「元々のプロジェクトの発足者は、副所長の慰神宗次だったが、二年ほど前に死んで今は彼の腹心達がプロジェクトの引継ぎ行っている。それからはそのグループの研究に収まらずに、医研全部の研究グループを巻き込んでいるわけだ。」
感傷も感情もなく、綾はただ聞く。
「残念か?君にとって、慰神宗次は復讐する第一人物だと思うが」
どうでもいいような口ぶりで、冷徹に答える。
「関係ないわ。私が復讐したいのは医研であって、慰神宗次っていう死人じゃない。復讐ってよりも、殺したい第一候補は、今プロジェクトを続行している跡取りさんなるわ」
辛辣に悪辣を返すように、浅崎がほくそえむ。銃口を突きつけられている状況下において、その状況すら楽しんでいるかのような笑みが、顔に広がっていった。
「何か、可笑しい?」
抑揚なく綾が問う。対し、浅崎は笑い返す。
「くくくっ・・・。面白いと思ってなぁ。復讐の修羅か羅刹か女鬼か―――、標的が無くなろうとも、止まる事は無いのだろうか?」
綾の表情が強張り、銃持つ手に力が入る。
しかし、浅崎は続ける。
「実はな、わたしは医研が大嫌いだ。自分で創っておいてだ。嫌いも嫌いで憎悪しているくらいにだ。医療技術医学会の進展医薬品の開発医師の進化医学的未知領域の開拓。全て、総ての望みを叶え、実現させるために創設し、確かにそれらの悉く行い成功させてきた。
しかし、しかしだ。それらの功績名誉受賞参賞の全てが気に入らない!爆ぜた名声も流布した醜聞にしか思えない!
はっきり言おう。医研は在ってはならなかった。存在してはならない。存続してもならない。創るべきではなかった。やり直し出るわけでもないが、やり直したとしても今になれば同じようになるに決まっている。初めの始めから狂っているのに、歪んでいるのに、崩れているのに、真っ当にいくわけが無い。
医療とは医学とは救うことだ。痛み、苦しみ、病、死、そして生。それらから人だろうが動物だろうが生物を救済することだと思っている。
だが、医研の方針と思想は順列が逆だ。医学のために犠牲を払い、医学のために生贄を捧げ、医学のために何でもする。殺そうが、犯そうが、解剖しようが、配合しようが、摘出しようが、生体実験だろうが、改造だろうが、何しようが、医学のため、医学のため、医学のため!
・・・・・・・・・・・・うんざりだ。」
そこで一息大きなため息を吐く。
人間は大小なりの社会の中で生きる。生きている社会が狂っていれば、人間も狂う。しかし、狂っている社会では狂っている人間が正常とみなされる。通常社会においての普通の人間は、狂った社会では異端とされる。そのような人間も狂った社会にはいれば、勝手に狂っていく。自ら狂いにいく。そうである事を望まれ、そうならずにはいられない。その中で、平生の精神を保ち、狂うことなく狂う人間の核中に、長く永く居ることは、苦行な事だろう。それを彼は十年以上も続けていたのだから―――。
「あなたの事はどうでもいいけど、ついでと言う訳でもないけど、お望みの通りに壊してきてあげる予定。その代わり、協力として情報をありったけ提供してもらうわ」
と言って、綾は銃口を降ろした。
「警戒を解いていいのか?」
「別に解いたわけじゃないわ。今あなたを殺すよりも、生かしておいた方が利得と思っているだけよ」
「非道な集団を設立した老いぼれに、生きる価値もないと思うがな・・・」
嘲る初老に対し、質問を続ける。
「じゃあ、今のうちに聞けるだけ質問しておくけど。まず、今計画を首謀しているのは誰?」
表情を元に戻し、質問に答える。
「御絨碍という男だ。慰神が死んでから入ってきた男だ。慰神とコネがあったのか、知らないが、研究の指揮上に直ぐに立っていた奴だ」
綾の知らない男だ。S.I.S.O.の情報にもない。
「今の密輸や誘拐等の犯罪もそいつの指示?」
「と思ってもらっていいだろう。慰神と同じく、マッドな奴だ。どんなことでも、なんでもやる。
例えば、君が知っているようなこともな」
その事は思い出さないようにする。
「・・・・・今やっている研究の目的は何?」
「前の研究の延長だと思ってもらえばいいが、目的はよくわからない」
「どういうこと?」
「慰神の研究は君の知っているだろうが、生体実験の範疇では無いようなきがする・・・。被検体の数も多すぎる。そのくせ、意味の無いことばかりだ。医学的な見地を超えすぎている・・・」
意味のわからない事を呟くと、浅崎は机の上に置いていた円柱型の筒を指差した。
「そこに研究の成果の一つがある。私の専門に従事しているが、あまりいい物ではない。後で確認してくれ」
綾は筒の取手を握り自分の前に引き寄せた。
「あなたの専門ってことは脳外科かしらね」
「そうだ。どうしてもその分野を必要としていたらしい。私は数年前に脳移植手術の方法を立案し成立させた。その発展だ」
脳の手術の難しさは言わずもながらだが、それ以上に困難な脳移植は、不可能に近い。その技術を開拓した浅崎禎明の功績は、ノーベル賞を貰うに相当すると思ってもいい。
しかし、彼は医研の狂乱惨禍に属してこれを成し遂げたのだ。何らかの、何人かの犠牲が有ったかもしれない。有ったとも思われる。
「後で確認ね・・・生物かしら」
「生物だよ。生きている事には成っているからそうだろう」
「曖昧な表現だけど・・・・・・。いいわ、次の質問。具体的にはどんな事してるの?前みたいに継ぎ接ぎ?」
後半の抑揚が少し不機嫌だ。
「その筒の中身が沢山と、人体のあらゆる臓器の培養だ。しかし、これは手段だそうだ。御絨から直接聞いた事だ」
「じゃあ、目的は聞いたんじゃない?」
首謀者から話を聞いているなら、今医研のやっている研究の概要を知っているはず。なら、目的についても聞いているのが普通だ。
「完全なる存在の完成」
「確かに、良くわからないわ・・・」
前に彼が言ったとおり、目的が良くわからない目的だった。
目的とは物事の行う上での到達点であるべき目標であり、そこにそれに辿り着くには明瞭で鮮烈なものであるのが望ましい。が、この場合の目的は恐らくでもなく、隠すべき事柄である。研究の内容が人徳を逸し、背徳を達したものであるのは判っている事である。ならば、手段の時点で異常ならば、目的は更に異常に違いない。
「前の続きなら、私で終わってるはずなのに」
綾の憎悪の呟きに浅崎も頷いた。
「らしいな。あれ以降、君以上の傑作は出なかったようだ」
諦め切れなかった奴も居るがと、更に続けて言った。
「それも嫌な感じね。褒めているのに物扱いなんて、人をあそこは何だと思ってるのよ」
辛辣な愚痴を零した自分が自分を不機嫌にさせているのが分かる。どう愚痴を、罵倒を吐いたところで、決着をつける以上に積年の積念を晴らせないらしい。
「もう、ここはいいわ。後はあなたの研究成果の確認と、あなたには部署で尋問に耐えてもらう事にしましょ」
「そっちも秘密裏な所だろう?私を連れてっていいのか?」
「いいわよ。その方が色々と都合がいいしね。情報を引き出すなら、私よりもその道のプロに頼んだほうが早いし。ああ、って言っても拷問じゃないから」
綾は浅崎に立つように命じた。
しかし、浅崎はそれに応じることはなかった。
「言っただろう?警戒を解いていいのかな」
彼の手には小さな拳銃、警察官が良く持つニューナンブのそれがあった。
拳銃の銃口は綾に向いている。
射程までの距離ほぼ零。
正確には銃口と綾の心臓とは五十センチ強は離れているが、引き金を引くのと同時に動いても避けられる距離ではない。
通常の人間ならそうだ。
そうでない彼女はこの状況でも余裕な態度を貫いた。
「無駄って分かるでしょう?この距離からでも私なら避けられるし、避けられなくても私は問題ではないわ」
諭す彼女に対して浅崎は笑みを浮かべ、こう言った。
「言っただろう?」
彼の腕が動く。
「生る価値などないと」
儚げな笑みだった。
「!」
引き金が引かれ、撃鉄が持ち上がって、打ち下ろされ、薬莢を叩くと、銃声が響いた。
綾は反応できても対応する事はできなかった。
コール音。後に繫がる音と声。
「はい、完了です。処理班をビルまで。ええ、そうです。死体は十体ありますので」
社長室。できかけのビルで最も出来上がっている場所。しかし、今では最も悲惨な場所でしかない。
十の死体は全て銃死体。どれもこれも脳漿ばら撒いて、床の絨毯も重厚な机も高級な椅子も壁も赤黒く汚している。無残な亡骸には無残な死相を湛えるものばかりだ。頭という頭に元からではない穴が開いている。一体だけは胸からも血を流して、血の池を作っている。
そんな終っている様な社長室で、死体置き場のようなここで、淡々と事務的に携帯電話を掛けている。
「対象から手に入った物があるので、今から支部の方へ向かいます。では、後ほど」
デジタル音が甲高く鳴る。
懐に携帯電話を仕舞って、重い金属筒の取手を握った。
正面には死体。
死体は死体でしかないが、他とは全く異なる死体。死因は同じでも、この死体だけは違うものだ。
何故なら、顔が違う。他九の死体が無念の顔をしているのに対し、この一死体は安らかに寝入っている様な顔をしている。
「たく・・・、貴方だけね。私を相手にして殺されなかったのは・・・」
不満であり侮蔑、敬虔であり遺憾な言葉を残して、生存者はここを去った。
S.I.S.O.
世界的に根ざす、秘密裏の国連組織。
その活動内容は前に記した事だが、各国各地に分布しているその支部が何処にあるのか。
無論、大広げにはできるはずもない。大体の支部となる場所は、カモフラージュされているか、または別の会社などの中に存在しているか。もしくは、支部となる場所が元からなく、情報だけの繫がりでできているかだ。
ここ浮遊島にある支部は二つ目の項目に該当する。
どの会社の中に存在しているのか。
その場所は、
―――――警察署だ。
浮遊島警察署。そここそ、S.IS.O.の支部のある場所だ。
ここの中にただ存在している訳ではない。この警察署自体の存在がS.I.S.O.であり、警察署となっている。
警察署で働く人々の殆どが、S.I.S.O.の存在を知っている。その内の何人かは分からないが、警察の仕事とともに、S.I.S.O.の仕事も兼用しているか、もしくは、警察関係者の皮を被って、S.I.S.O.の仕事に専念している者もいる。
綾はそれらの人々とは違い、警察とは関係のない人間である。つまり、警察とは違う他の職をしながら、S.I.S.O.の仕事を任されている。綾がカフェを経営しながら、その時間外に荒事をこなしている様に、例えば、この島にある学園の生徒、学生が危険な裏社会で暗躍していることもある。
今、綾は警察署に来ていた。正確にはS.I.S.O.の支部の核中がある、警察署の地下に来ていた。
そこは、広く薄暗い室内にコンピューターと液晶画面や、機器と機械の光が輝き、部屋の中心奥に巨大なコンピューターが、柱となって聳え立っている。司令室と言う所。
その柱の前に席を構えるのが指令。
「御苦労だったな。」
それなりに端整で、威圧的な顔立ちの中年くらいだろうと思われる男。指令たる人物が彼女を出迎えた。
連日の仕事を遅くまで、および徹夜で仕事しているはずなのだが、表情にも素振りにも疲労の欠片すら見えない。顔に出難いだけで、本当はクタクタなのかもしれないが。
「処理班にはもう向かわせた。今頃死体も何もかも無くなっているだろう」
処理班にも能力者がいる。もしかしたら、ビルごと無くなっているかもしれないが、そんな事はないはずだろうと思う。
「今回はエキストラも転がってますから、向こうも時間が掛かるかもしれませんね」
死体十体もあれば、なかなか工作のしがいがあるのかもしれないが、大変な作業になりそうである。消し飛ばすようなやつがいたら、即座に終わるが。
「それはないだろう」
死体処理に時間が掛からないらしい。本当に消し飛ばすのだろうか。
指令―――名を最上十徳という、何とも坊さんどころか、破戒僧でもやれそうな名前を持っている。――――が、続けて言う。
「さて、そのエキストラどもだが、医研お抱えの殺し屋だそうだな」
疑問符もない、断定的な質問に綾は縦に首を振った。
「能力者が居なかったのは幸いでした。ヤクザ関係か、せいぜい軍人流れでしょう」
「だろうな。君を相手に十人程度でよく挑みかかる気になるな」
くくく、と含み笑いしながら肩を竦めて見せた。
あの場にエキストラに選ばれ、頭をぶち抜かれた方にとってはたまったものじゃない。
「その点関しては馬鹿としか言えませんが」
馬鹿呼ばわりされる死んだ方々が、ここに居れば、こう言うだろう。
銃弾を目測で避けられる、そんなのが相手と、聞いてない、そんなの普通の人間が相手できるか。と。
「どうも、こっちの動きを予測していたように思えます」
笑うのを止めた指令が、眼光を彼女へと向けて言う。
「そこは気になるところだな。山を張った可能性もある。他にも取引を阻止しに行っているから、そこら辺との折り合いを見ればわかるだろう。臨時に來がそっちに行っている。」
指令の言葉に、綾は怪訝な表情をした。
「まだ高校生なんですから、彼をあまり使うのは控えたほうがいいですよ」
「仕方ないからさ、人手が唯でさえ不足気味なんだ。それに、彼なら能力者が来ても向こうがどうにかなるだけさ」
「それは、そうですけど」
否定はできない。來と言う子がどんな能力を持っているか、綾は知っているからだ。
しかし、人材不足も否めない。何分、強力な能力者しかS.I.S.O.の執行者になれないし、そういった者達を引き込むのも機密組織な為に難しいのだ。
だから、綾や來のような実力者が多々駆り出される。
「前回まで密輸が平沼の命だったのに、今回の様な複数同時の取引があったのが気になります」
それには頷くだけであえて触れずに、ここで指令が話を戻す。
「それはそれといいとして、医研が殺し屋を持っていた事だ。その事がこっちの接触で明らかになった訳だ。なら、それを盾にして潰しに行く事ができる。後から出てくる醜態は表のメディアに料理してもらうとしてだ」
分かっているな。と顔で言う。その答えも決まっている。
「勿論、私が行きます」
徹底的に跡形もなく。一人残らず、一つも残さず。殺せるもの全て、壊せるもの全て。殺し尽くし、壊し尽くす。
復讐という報復のもと、非道に非情を重ね、冒涜な程に背徳を重ね、残虐なまでに加虐を重ねる。
それだけの復讐をする理由も、復讐すべき理由も、私にはある。
「御陣に攻め込むのは、数日後に成るだろう。色々と手回しと、許可を本部に要求しなければな。ところでだ・・・」
指令の人差し指が、綾の持つ金属筒を指す。
「それが、今回のお土産か?」
嘆息して、彼女が答えた。
「お土産って程の物ではないと思いますよ。今回の取引のブツだったのは確かですが、浅崎曰く、重要なものらしいけど・・・」
どちらかというと、と言い切り。
「私を誘き寄せる餌≠セった気がします・・・」
と、口惜しそうに言った。
医研が綾たちの動きを予測していたのならば、それは十分にありえる事だ。何も事がなければ、動くことのないS.I.S.O.を出し抜こう、と思うなら、それなりのモノを、腎臓なり肝臓なり、より違法なものをちらつかせる必要がある。
今回綾が回収してきたその中身も、そう言った類であるに違いない。
「中身の確認はしたのか」
「いえ、まだです」
綾は指令の机に金属筒を置き、その全体を晒してみせる。
「見たとおり、特殊なものです。重量も前までの肝入りアタッシュとは、かなりの違いがあります。重いです」
「よく今まで持ってたな」
そう言って、指令は筒の表面を見回し、状態や形状を吟味した。
円柱状の金属に取っ手の付いたそれは、重厚な金属沢を纏い、下方に告継ぎ目がある。表面のフレームは中身のカバーに相当しているのだろう。機械的な細工が施されているように見えるところが、幾つかある。
「なるほど、迂闊には開けないほうがいい」
指令の判断は妥当だ。
綾も縦に首を振る。
「さて、ここら辺の処理は【透視】をするのが妥当だろうけど、今日は居ないから技術的に開けるとするか」
内線で連絡をいれ、徐に、取っ手を掴み、指令は席を立つと扉向かい、廊下へと出た。それに、綾も付き従う。
警察署の地下に巡る廊下は、延々と先に伸びているように思える。無機質な合金の壁がそう感じさせるのだろう。
事実そこまで遠くに繋がっている訳でもない。が、地下の使用面積はかなりのものだ。司令室が然り、その他にも部屋がある。
倉庫、資料図書室、男子トイレ、女子トイレ、自炊室、会議室、更衣室、トレーニングルーム、シャワールーム、病室、宿泊室、電気制御室。更に、取調室、監視室、監禁室、研究室、解剖手術室、遺体安置室、武器庫、射撃訓練室、エトセトラ・・・。
地上の警察署と比べても、相当広いが、下に深くなる構造なので、一応、地上の敷地面積の中に納まってはいる。
ただし、食堂はおろか、自販機すらないのがいささか不便である。なので、支部に常勤している人は外食することになるか、コンビニ弁当および愛妻弁当を食べることになる。飲み物も持参が基本だ。
二人が向かったのは、研究室。
そこで、二人を眠そう待つ一人がいた。
「研究は捗っているか?」
室内に入るなり、指令が一声を上げた。
そんなことはどうにでもいいという感じで、頭をボリボリとかいて、眠気眼半分に倦怠感たっぷりの生返事を返す。
「最上指令・・・今何時だとお思いですか・・・。全生物が活動停止する丑三つ時じゃないですか・・・」
欠伸で開く大きな口を片手で隠すここの研究主任、村葦朝霞。今まで寝ていたらしく、寝癖やら、女性では死活問題のノーメイクでの対面となった。
「あぁやだやだぁ、髪がボサボサ・・・。世界の美貌が半減だぁ」
「独り身なのに良く言うわね・・・」
思わず穂畝綾が嘆息したのに対し、あなたもでしょ、村葦朝霞が返した。
指令が何歳かは置いておいて、女性二人は二十代である。身嗜みは当たり前のお年頃である。
「どうやら、元気みたいだな」
「なわけないでしょ。指令の方が元気とうか、疲れの見えない顔してぇ」
「うむ、疲れてはいるが、働けないほどではないな」
「指令、ここ最近寝てない気がしますが・・・」
思ったことを綾が言ってみた。
「寝てはいるぞ、君が帰ってくる前に三時間ほどな」
「そうは言っておきながらも、三日ほど不眠しているでしょう・・・」
「おかしな体してますねぇ・・・。穂畝と同じ体なのかなぁ」
「まさか、私は普通の人間だ」
「指令、私が化け物みたいなこと言わないでください」
「おっと、失礼したな」
(ぶっちゃけ、化け物のような体でしょ・・・)
小さく呟く朝霞の声は、確りと綾の耳に届いていた。とりあえず、睨んでおいた。
「さて、早速だが頼む」
そういって、持っていた円柱のそれを、それと同じような金属の台の上に置いた。
一見の朝霞の感想としては、
「どうって事なさそ」
だそうだ。
拡大鏡を着けて、じっくりと観察を始めた。
「フレームは中身の保護でぇ・・・底はほかの機械と連結できる感じかなぁ・・・」
拡大鏡を外し、詰まらなそうな顔をした。
「爆弾とかじゃないみたいです。ぁあ残念。もっと面白いものかと思ったけどなぁ」
爆弾を持ってこられて、面白がれるものなのかと、思う。
勿論綾もそんなの持って帰ろうとも思わないし、指令も持って帰ってもらいたくないはずだ。
「では、これは開けてみても大丈夫なのか」
「いいですよ指令。トラップも起爆装置も付いてませんから」
どうやら、二人の怪訝していたことは、無駄になってはしまったが、無駄になってくれた方が十中八九いいだろう。ここにある物に対しても、ここにいる者にしても、ろくでない事がありそうで、ろくでもない事をしそうな気がする。
「空けてもらえるか」
「では。・・・これをこうしてぇ・・・」
朝霞の指先が、パズルを解くように、金属の表面を動いていく。複雑ではない構造らしく、数箇所を触っただけで、解除音が鳴った。
「はぁい、開きました。カバーを上に引き抜けば、中身が見れます。カバーをはずしまぁす」
底を台に安定させて、上へと金属のカバーを外した。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・首。
正確には・・・・・・・・・・・・・生首。
人間を二つのパーツに分けると、首と胴体とすることが出来る。その一つ、首だ。胴体は無い。首が、そこにある。
吐き気がするくらい生々しい首が透明ガラスのなか、赤い液体に満たされて佇んでいる。
それは、まだ幼い女の子。端整な顔立ちの、幼い故に肌のきめ細かな女の子の首だ。
首から下に繋がる胴体の変わりに、無数のコードとチューブが生え、容器であるそれに繋がっている。
S.I.S.O.の三人ですら、これを気持ち悪く思った。
間近でみた朝霞は特に顔を顰めている。綾も指令も顔が険しくなった。
円柱の金属カバーを外したその中身は、円柱の容器の中に佇む生首。
容器はまるで武士の時代にある、首桶と酷似する。敵方の大将及び、仇討ちした敵の、打ち首にされたものの、首を容れるためのそれに似ている。
しかし、それは酷似しているものの、全く別のものだと言える。漸近してはいても、イコールの答えには決してなりえない。
生々しい首。
生の首。
生首。
生きている首。
そう、生きている。首だけで生きている。
首桶に入った首は当然死んでいる。生首といわれようとも、その中に入っている首は死んでいる。
死んでいる首なら、綾は何度も見たことがある。そればかりか、標的を首だけにしたこともある。死んだ首なんてものは、彼女にとっては気持ち悪く成るものでもない。
しかし、この首。生首は気持ちが悪くなった。
首と胴体はギロチンで切断されれば、おのずと死ぬ。切り離されてから、数秒は死なないとはいえ、死ぬのは変わりない。
しかし、ここにある。いや、いる首は生きている。胴体も無く、脳と脊髄以外の生体器官を、五臓六腑を失いながらも、生きている。
死んでいるが故に、気持ち悪い、人の首。
死んでいて当然で、気持ち悪くない、人の首。
死んでいない事で、気持ち悪い、生きている人の首。
死んでいるのが必然でありながらも、生き続けている首は、その矛盾を孕んだ存在によって、より不快と吐き気を催す。
「これ生きてるの・・・」
綾は訝しさと、不愉快さの混じった疑問を吐いた。
「こんなのでよく生きている」
指令はそう評価した。だが、称賛ではなく、軽蔑にも似た響きだった。憎悪だった。
「まさか、ここまで医研の医療技術がイカレてるなんて・・・」
科学者たる朝霞は技術面に驚嘆し、吐き気に気圧されまいと、口を手で塞いでいた。
有り得る筈がない。在ってはいけない。
首だけで生きていける筈がない。鬼であろうとも、首と胴が離れれば死ぬと言われている。
既に、この首だけの少女は、生命を超越していると言っていい。
「首だけで、長時間生きていられるか?」
指令は医学的見解を朝霞に求めた。
「・・・・・・無理です。確かに、首を切り落とされても、十六秒は死ねないとの記録が有ります。しかし、脳に必要な酸素や栄養を供給する器官。呼吸器官、循環器官を失ってなお、生きるのは不可能です」
「じゃあ、なんでこの子生きているわけ・・・」
「おそらく、内部の赤い液体は細胞液、――つまり血液と思って。容器に仕組みがあって、外気の酸素を液に溶かし、チューブから首に液体を循環させて、脳に酸素と栄養を送っている。だから、脳が死なないのでしょうねぇ」
「だからって・・・」
綾の息が詰まった。
「だからって?そうねぇ・・・・。確かにこんなのを実現させるのは、不可能。だけど・・・」
「医研の医学技術が、ここまで発展していた。という事だろう」
つまり、医研は脳だけでも、生命維持をする技術を持っていると言う事。
医学界の最高峰研究施設であり、裏で暗躍を繰り返した成果がこれなのだろう。
「非人道的ね・・・。私のときも相当だったけど、これじゃあ生きている意味ないじゃない」
「むしろ、生きながらに死んでいる。何も出来ないのは死んでいるのと同じだ」
指令の言うとおりだ。
生き物は活きているからこそ、生き物としていられる。つまり、生活しているという訳だ。
しかし、首だけ培養されていて、活きているとはいえない。生きていても、活きる事には程遠いというわけだ。
「身体の方は、どうしてるのでしょうかぁ・・・」
「おそらく、私のように継ぎ接ぎの素材にしているのでしょうね」
苛立ちの陰りを見せ、綾はそう言った。
「しかし、これが医研を叩く、大きな証拠になりそうだ」
「ええ、そうですね・・・」
生命倫理を脅かす研究を、組織ぐるみでしていたのは、間違いない。そう、ここに医研の闇取引から押収してきたものが、揺ぎ無い証拠。
ここからのS.I.S.O.の仕事は妨害ではない。
破壊だ。
社会の裏に根付く、悪性を根幹から破壊する。
癌細胞を手術によって、適切するのと同じだ。
外から見えない。体内にある腫瘍をメスによって切る。
社会に悪影響を及ぼすような組織は、取り除き焼却するのが一番だ。
「さて、これを詳細にして、本部に医研の処分を要請させるか」
指令はそう言って、自動スライドの扉の前に向かった。
綾もこれ以上の長居もする必要はないので、指令につき従って、扉に向かった。
「じゃ、わたしも家に帰らせてもらうわ。後はお願いね」
「はぁい。夜道の変態を殺さないようにねぇ」
皮肉でも冗談でもなく、本気の忠告をして、朝霞は欠伸をする。
帰り際、綾は振り向き様に、首の少女の顔を垣間見た。
揺れる髪の毛に、白磁の肌合には赤い液体のその色で、不気味にも鮮やかに咲く、血色の花の様。
開花するように、ゆっくりと二つの瞳が開眼した。
「えっ・・・!」
開いた扉を凱旋しようとした寸前の指令と、二人を見送っていた朝霞の視線が、驚嘆を吐いた綾へと向かう。
「どうした?」
指は指さずとも、綾が凝視するその先を追う。
彼女の見つめる先に、虚ろな眼球があった。
確かに、驚愕がそこにはあった。
少女が、首だけであるという状態にも関わらず、目を開く―――つまり、意識を保っている、もしくは、持っている。―――事を示したからだ。
「この状態で、自立行動ができるのか」
「・・・・・・無理と言いたいですねぇ・・・・・」
「だけど、この子、見開いているわよ・・・」
綾の言うとおり、大きく開かれている双眸は、凝視するように、こちらを見ている。
対し、朝霞の見解はこうだ。
「さっき言ったでしょうぅ。首を切られて二五秒は死なないって。あれ、実際に計測された実験結果なの・・・。ルイ十六世の時代だったかしらぁ。ギロチン死刑が流行っていた時代だけど、首を切り落とす、と言う即死性のある処刑具としてねぇ。だから、苦しまないで死ねると評判で、沢山の人の首を刎ねた。でも、本当に苦しまないのかって。でぇ、ある医学者が、首を落とされた囚人の瞬きで意識がどれだけ持つか計測したの。その結果が二五秒。その後、実験結果が広まり、ギロチン処刑はルイ十六世を最後に、公開処刑が終わったの」
「とんだ与太話だな・・・・・・。で、つまりは?」
指令が話の結を催促する。
「つまり、首だけで十六秒以上意識を失わずにいられるぅ。その公式記録はないから、自分で目を開くなんてぇ、わたしどころかぁ、誰も答えられないのぉ・・・・」
困った顔で、指令と綾を彼女は見た。
S.I.S.O.お抱えの技術者でも、目の前の医学技術を説き伏せるのは。お手上げらしい。
首。意識。医学者。
連想する言葉が、綾の中で答えられただろ人物の名前が浮かび上がった。
だが、その人物は既にいない。
その者の残した最大の産物が、筒に入ったこの子と言う訳だろう。
「メトリーできるか?」
指令は朝霞に問う。
朝霞もS.I.S.O.の一員。つまり、能力者でもあることをだ。綾と同様に、何かの力を持っているのだ。
「分かりましたぁ。二人にも意識共有させますねぇ」
そう言って、朝霞は首の少女に向いて目を閉じ、高次元の意識に集中する。手を翳し、少女意識を汲み取る。
サイコメトリー。
人の意識や物に宿る残留思念を読み取る力。
かの有名な、二度に渡ってドラマ化された少年マンガを知っていれば、説明は不要だろう。
そのマンガの主人公が持つ能力の強化版が、朝霞の能力だ。
残留思念から、そのモノに関わる過去を一瞬で自分の知識にする外、相手の考えている事を理解する。などなど。それに加え、同能力者ではない、他人にも意識を共有させて、声を使わずに意思疎通を可能とさせる。
閉じた目をそっと開ける。
「・・・・・繋げますぅ・・・・・」
朝霞の呟きが聞こえると、綾の頭にバチリと何かが響いた。指令も同じだろう。
朝霞の能力をサーバーとして、四人のチャットが開かれた。
始めに聞こえたのは少女の声だった。
「ここどこ・・・ここどこ・・・ここどこ・・・ここどこ・・・ここしらない・・・ここしらない・・・ここ知らない・・・ここ知らない・・・ココシラナイ・・・」
少女の視界に研究室の風景が見えるようだ。
「ダレダレ・・・あなたアナタ誰・・・・・・・・」
指令と綾は共に朝霞を見た。
「普通に喋っていいわぁ。口に出す言葉の意識を繋げているだけだから」
言葉にしようとしない思考は、相手に伝わらない。と言うことだ。
アイキャッチで、三人は綾が先導して話すことに決めた。
「先に自己紹介したほうがいいわね。私は穂畝綾。会話を繋いでるのが、村葦朝霞。・・・覚えられないと思うから、この人は指令」
最上十徳こと指令は、ひどいなと呟いた。
小さい子がそんな名前を覚えられるとも綾は思いもしない。覚えられるかもしれないけど、名前と思われないだろう。
「ここが何処かとは言えないけど、あなたが元いた所じゃないわ」
少女の口は動かないが、意識で直接の会話を伝えてきた。
「わたしが・・・もといた・・・トコロ・・・」
首だけで、まともな状態でもないのに、よく思考できると思える。こんな状態で聞く、話すと言う一般的な動作ですら、出来るだけで凄いことだ。
その思考の先に何があるのか。それこそS.I.S.O.である三人のほしい情報。
それを綾が問う。
「あなたがいた場所がどんな所か覚えてる?」
少女がいたのは、医研であることは分かっている。知りたいのは。医研のどんなところに居たかだ。
「・・・いたトコロ・・・・・・・」
少女が思い出す。その目で見てきた光景を。
「わたしと・・・同じ子が・・・・タクサンイタトコロ・・・?」
この子と同じ子が沢山いた―――。
つまり――――――。
「それって!」
「首だけにされた子供がまだ居るってことか」
指令は腕を組み考える。それを聞いた事により、本部には早急に申請を通すようにしなければと。
「沢山って?あなたの様にされて?」
声は少し荒いでいるものの、感情は抑えて綾が問い続ける。
「・・・・・沢山・・・・・・。横にも上にも・・・・わたしと同じ・・・・。向かいにも・・・・沢山・・・・・・・・」
「朝霞、どう?」
綾が朝霞に問う。
「・・・・・・どれだけいたのか分からないけどぉ、数にして数十の首が並んでいるのが見えたわ・・・・・」
ここにいる者の意識を繋ぎながら、朝霞は少女の見た光景を読み取っていた。
朝霞が少女から見た光景は、異常も異常に異常だった。
この少女の言うとおり、少女の周りには、視界の向こうにも、首だけにされた子供達が、赤い液の筒の中にいれたれ、壁一面に並べられていた。
その視界の内。首の入っている筒よりも大きい容器に、同じ赤い液に誰かが入っている。そして、その大きい容器の前に白衣が。
「白い服着た人。だれかわかるぅ?」
朝霞はその人物が誰か少女に問う。
「白い・・・人・・・・・・。あの白い服・・・のヒトは・・・シラナイ」
「恐らく、御絨碍って男ね。今の研究の首謀らしいわ」
綾の予測ではあるが、その男の名前を出した。
そんな異常な部屋に入れるのは、数ある医研の研究員でも、御絨碍か、首だけで人を生かせる程の技術を産んだ浅崎禎明、位だ。しかも、浅崎が自分の技術を僻んでいた事を考えれば、その技術を欲していた人物。つまり、御絨と言う首謀者こそ、そこにいるに相応しい人物であると、彼女は考えたのだ。
「そんなデータ、どこから仕入れた?」
「今回収している死体のどれかが、私に教えてくれたの」
どれか、浅崎禎明の事。
一律して、綾には死体はモノでしかない。
「他に白い服着た人で、分かる人いるぅ?」
朝霞はもう一度、同じような質問をした。
白い服という言葉に反応してか、少女の心視に他の医師か、学者の映像が写ったからだ。朝霞の感じでは、御絨碍よりも数段老けた男である、そいつの事。
「・・・おじいちゃん」
らしい。
「わたしの・・・・・・・おじいちゃん・・・・・・お医者さんの・・・・・・偉い人・・・・・・・。いつ・・・も、白い服・・・・・・着てる」
身内が医師なら、白い服で反応してもおかしくは無い。
キーワードで呼び起こすもので、身内や友人などの事が、最も大きくなる。もしくは、自分の事だろうか。
綾は肩を竦め、指令は鼻で嘆息した。どうやら、余り内部情報を引き出せそうに無いと、判断したからだ。
「あまり、手がかりは掴めそうに無いわね・・・」
「そうだな・・・。この少女の身元を辿った方が、有用かもしれん」
そんな切り上げの早い二人に、朝霞は反論を言った。
「そのおじいちゃんが、首だけになったこの子の前に見えるんだけどぉ?」
赤い視界の中、少女の目の前には祖父の顔。そんな心視。
衝撃では無かった。と、言えば嘘に成るだろうが、しかし、取り乱しは誰もしない。する必要もない。
指令が、静かに少女に聴く。
「お嬢ちゃん、名前は?」
「・・・・・浅崎殊那・・・・・・・」
浅崎の性。おじいちゃんが医者の偉い人。
綾には既に、分かっている少女の祖父の名。
「おじいちゃんの名前は?」
それを問う。
「・・・・・サダアキ。・・・・・・浅崎禎明だよ」
「その名は・・・・・・・:」
調査の段階で、リストに上がっている。重要人物として、指令は知っている。
医学会の最高峰技術者として、朝霞は知っている。
終身を見届けた者として、綾も勿論だ。
浅崎禎明。総合医療研究所、略称医研の創設者にして現所長――――いな、今ではもう故、および前所長だろうか。
さて、朦朧とする不安定な意識の、幼い少女には、祖父の死を知る事がどんなことだろうか。
「朝霞、止めて」
反射的に、瞬時に能力の発動を止める。
「なによぉ?穂畝」
「この子に読み取られる前に、先に話しておくことがあるの」
意識を繋ぐ事を止めさせ、綾はここに帰る前の事を話し始めた。
意識を繋いだまま話せば、少女にも自分が見てきた光景を流すことに成りかねないからだ。
つい先程の事だ。だからこそ、褪せていない鮮明な心視を見せる事に成りかねない。少女が見てしまった後の事。どんな反応をするか、どんな事になるのか、が懸念する事である。
「この子をミッションで回収したのは分かるわよね」
「勿論だ。未開のビルで、取引の邪魔をした。そうだろう?」
「ええ、指令の言う通りです。その際、エキストラも多かったけど・・・・・・・」
出番が直ぐに終わった、悲しいエキストラたちだ。
「取引の中核に、首謀者と計画内容を聞いた。プロジェクト、元来の発案者は慰神宗次――、医研の副所長ね。でも、三年前に死んだそうよ。今の首謀者がさっき言った・・・・・・」
「御絨碍・・・・・ね」
「それで、プロジェクトの内容は」
「慰神の研究・・・・・・。知っているとは思うけど、その続きらしいわ。目的は、完全な存在の完成だとか」
「完全な存在・・・・・・神でも創るのかしらねぇ」
「葦村が見たのが、そうなら、殆ど神様は完成していると言うわけか。ふん、からくり人形だろうと、どっちにしろ、壊させてもらうがな」
くくくと、楽しそうに笑う指令。だが、笑い顔で半分だけ閉じた、その目には暖かみのない、冷徹なものだと、誰もが気づかないだろう。そして、綾も―――。
「壊すのは私の役目ですからね、指令」
綾は不機嫌に言った。
「分かってるさ。実質的には君が。私は卓上から事実的に、だよ」
何となく、話がそれてきている感じがしたので、朝霞は話の筋を戻すことにした。
「まあ、いいけどぉ。神様を創る計画は、誰から聞いたのぉ?」
「分かって聞いているでしょう?」
勿論、朝霞は分かって聞いている。
「浅崎禎明だな」
「ええ、元からではなく、後から参入させられたとの事です。医研には、幾つかの研究グループが、それぞれの研究をしていたそうです。その後、慰神か、御絨か分かりませんが、他のグループを無理矢理巻き込んで、今の研究をしているそうです」
「随分保護者も抱え込んでいるらしいしな。暴力にものを言わせて、か・・・・・・。今までの傾向から言えば、らしいと言えばらしいな」
「非道の限りを、ですかぁ。で、浅崎の専門は、確か・・・・・・ぁあ、そぉいうこと」
浅崎禎明。脳外科医の最高技術者にして、医学会の権威。
「浅崎の脳外科における名声は・・・・・・、朝霞には言うまでもないかと思うけど、大きなものです。技術も知識も、通常の比ではないと思われます」
指令も朝かも納得した顔で軽く頷いた。
「まあねぇ・・・そういえば、卓上の理論で脳移植の方法とか、思いついていたらしいけどぉ」
それを鼠で実験はできても、人の脳で実証するのは、公に出るはずもないだろう。
「同じ医研の中では、その噂も流布するのが早かっただろうな。で、どちらかの首謀者にその研究を」
小休止に、少女の方を向いて、
「実際の成果にさせられた訳か」
と指令は言った。
首だけで生きている少女。ツマリは、脳だけで生きているのと変わりない。付属品はついているものの、これが、脳移植での、摘出後、移植前と言えば、そう言えるだろう。
単純に、首を切って、切った首を胴体に繋げるだけの、そんな移植法。
もしくは、脳を付属品ごと保存する方法。今の状況判断からは、こちらの方が有力だろうか。「でぇ、肝心の浅崎禎明は?」
聞くまでもないことだけどぉ。と、言う顔で一応聞く朝霞だった。
「死んだわ」
「ヤッタわけかなぁ」
「残念。勝手に死んでいったわ。自分の研究の集大成を残してね」
そう、言い残したように、この子がそうだ。
「その集大成がここにあるって事は、完全な存在の完成は、終わりに近いのかもしれないな」
「わたしが見たのが、その完全な存在の入った、容器かなぁ?だったら、殆ど企み終わってるじゃないですかぁ」
「終わっていてもいいけど。ま、その方が私には都合がいいかも。指令、本部に処分要請を急がせて下さい」
綾の残酷な眼差しに、残忍な笑みを湛えて、
「本部が渋ったお蔭で、標的の目論見を阻止できなかった。医研の完全な存在は完成しているらしい。それに生じた結果が、影響を出す前に、事を急いだ方がいいのではないか?こんな感じでいいか」
電話だろか、メールだろうか、連絡手段が何かはしらないが、指令は本部の人達をいびり倒す気だということは、よく分かった。特に、朝霞にはその楽しそうな感じが。
指令がまだ働くのかも、綾が医研を潰したがるのも、自分には余り関係ないので、どうでもいい朝霞だった。
殊更に言えば、こんな時間に寝ているところを無理矢理起こされて、ここで、こうしているので、眠くて、寝たくて仕方ないのであった。
「はぁい、話がまとまった所で、そろそろお開きにしましょう?」
パンパンと両手を打って、朝霞は言った。
腕時計を見て、綾は、今日もこんな時間かと、溜息を吐いた。
「そうね・・・。余り夜更かしすると、美貌に良くないんだっけ?」
「あらぁ?気にしていたのぉ?」
「気にするわよ。本業は接客業だもの」
三白眼で睨む綾に、ヘラヘラと朝霞は笑って見せた。
それを指令は笑みだけを残して、見ていた。
「では、この辺で、各自解散としよう」
「指令、あの子はどうしますぅ?」
朝霞が、首の少女を指す。
浅崎殊那。浅崎禎明の孫にて、彼の研究の遺産であり、集大成で醜態生。
首だけにされて、なおも生かされている、哀れな存在。
綾は朝霞に言った。
「朝霞、あの子の意識を私に、もう一度繋いでくれる?」
首だけで、生きていられるのも、どれ程の猶予があるのか、わからない。胴体―――おそらく、医研にあるのだろう――が、チャント残っているかも分からない。残っていたとして、この子を元に戻せただろう人物は、既に他界してしまった。このままの状態で、行き続けるのも酷な話しだ。少女の家族の存在すら怪しい。まだ存在していたとして、この在り方を完全に公定できるはずもない。
―――――残った救いの手は・・・・・・・
「オチつけてくれるわけねぇ。・・・分かったわ」
ちょっとだけ、先を読んでしまった朝霞だが、それが綾のやり方でもあるし、S.I.S.O.の在り方でもあるから、否定はできない。
指令も否定はしないだろう。寧ろ、賛成だろうか。どうであれ、証拠としてはもう十分だろうと、思っているのかもしれない。
心を冷やし、ふと、無意識に昔を思い出す。
バチリ。二人の意識が繋がった。
「あなたに、嫌な話があるの」
虚ろな目が綾に向く。
「イヤ・・・な・・・・・・話・・・?」
「あなたのおじいさん。死んだの、あなたを私に預けて・・・・・・」
瞬間的に、瞼が、瞳孔が、大きく開く。
「・・・・・シンダ?オ・・・おじい・・・ちゃん・・・・・・が?」
「ええ、自分を悔やんでね。自殺したわ」
事実を、この歳の子では、受けきれることではないだろう。それが、逆に良かったのかもしれない。感傷の似合う歳でもないし、命の重みもまだ、十分には理解できているわけでもない。
ゆっくりと、開いた瞳が、元に戻っていく。事実は事実として、受け入れるかのように。
「ソウ・・・・・・」
意識を読み取っている朝霞は、勿論だが、綾にも、少女の考えていることが、なんとなく伝わってきた気がした。
浅崎禎明とは少女にとって、どんな祖父だったのだろうか。
何時もの事だけど、綾は少し覚悟をした。ただ、何時もとはちょっと違う、そんな覚悟を。
「後、もう一つ嫌な話。今、自分がどんな状態なのか分かるわよね?怖いかもしれないけど、このままだと、まだ辛いかもしれない」
「わかってる・・・・・・わたしも・・・・・シヌ・・・ん・・・・・でしょう・・・・・・・」
「ええ、私が殺すの。あなたを楽にしてあげる為に・・・・・・・」
撃ちそびれの、残り一弾が入ったベレッタを脇から抜く。
「本当は、あなたのおじいさんを撃つつもりだった弾だけど・・・・・・、まさか、その孫娘に撃つことに成るとわね・・・・・・・」
単なる愚痴だ。
銃口が首の少女に向かう。
「オモチャじゃないわ。本物。怖い?」
ぬくもりも無い鋭い瞳で、少女を見つめる。
「・・・・怖い。・・・・・・デモ、このままの方が・・・・・もっと、怖い気がする。・・・・・・だから・・・・・・」
不安で揺らめくように、少女の瞳が、綾の瞳に重なる。
「わたしを・・・・・コロシテ・・・・・」
薄っぺらな懇願だった。でも、十分な重みの覚悟ではあった。
「ええ、今楽にしてあげるわ」
遊底を引き、照準を合わせ、引き金に指をかけ、左手で支える。
「私の名前は穂畝綾」
自分の名前を告げる綾に対し、
「わたしの名前は浅崎殊那」
少女も告げる。
ゆっくりと瞳が閉じる。
「じゃあね、殊那。おやすみなさい」
狭い部屋の中、銃声が木霊した。
帰ってきた部屋は今日も冷えていた。
寝室くらい暖房を入れて、暖めておけば良かったのだろが、電気代節約のためだ。
こんな時間まで、あんな仕事。帰ってくるここには誰もいない。空しいものがある。
仕事がか、独りがか、それとも自分がか。
一番空しく思うのは、睡眠時間が今日も少ないことだろうか。今日も四時間。
お休みタイマーで暖房をつけ、服は適当に脱いで、ベッドに倒れこむと、すぐさま、布団の中に潜り込む。
布団の中も冷えていた。それでも、暖かくなる。暫くすれば、暖房もついてくれる。
目を瞑り、今日のことは考えずに、泥のように眠るだけ。
大きな音が響いた。
次の瞬間、赤い光景が飛び込んできた。
真っ赤。
何もかもが朱に染まっている世界。
何かと息苦しい。何かと動きづらい。
最悪な気分。
とりあえず、代わりを捕まえて、面倒を押しつけよう。
今の。ちょうどいい。繋がりがある。
こんな所に降ろされて、前の奴か、呼んだのは・・・・・・。
ああ、仕方ない。
死ぬまでだ、
生まれてやろう。
その瞬間、男は喜んだ。
「出来たか・・・・・・十年越しの集大成だ!」
赤い部屋で、蕾が開いた華を喜んだ。
狂い喜んだ。
「アハハハハ!なんて気分がいいんだ。アハハハハ!」
多くの生きた首の並ぶ部屋で、男が笑い踊る。
奇しくも、S.I.S.O.の阻止しようとしていた医研の、いや、この男の計画はここに完成した。
完全な存在の完成が・・・・・・。
喜びが脳内を駆け巡り、昔の記憶を引き出す。前も同じように一人喜んだあのプロジェクト。
「そうだ、あいつにも教えてあげよう」
ふと思いつき、目が巨大スクリーンに向う。そこに映し出されているのは、あのビルでの殺戮シーンだった。
「マキナ!君に教えてあげないとな、ああははははは」
Before 1
何時だっただろうか。
自分が幸せだった日々は。
そう昔の事ではないけど、あれから今を考えると、何もかもが変わってしまった気がする。
いや、それ以前から、私の人生は変わっていたのが、正しいのかもしれない。
始めは無邪気に。
突然の地獄。
逃亡の果ての幸せ。
訪れた悲しみ。
そして復讐。
元から、私には憎しみがあった。憤怒も残忍さも、その憎しみに備わっていた。
それだけのものを、私から奪い、それだけの思いを私に植え付けたからだ。あいつらだけは、あそこだけは、絶対に存在を許したくない。
不倶戴天。
まさに、私との関係を示す言葉。あんなのと、同じ空の下にいるなんて考えたくもない。
だから消す。どちらか一方がいなくなる事を示す、この言葉のように。潰して、二度と私と同じ天を戴かせはしない。
それが私の医研、総合医療研究所に対する、復讐心。
あの時、私はまだ何も知らない子供だった。
養父と養母に拾われる、まだ前の事。わたしには、ちゃんと血の繋がった両親がいた。
この歳になって、もう殆ど当時の記憶は消えている。親の顔と名前は辛うじて覚えてはいるものの、どんな家族だったか、どんな暮らしをしていたのか、思い出は霞が懸かっている。
ただ、無邪気に小学校に通い、学び遊び、甘えては、叱られたりして、成長していった時だったのは、この時期、誰しもそうだし、私もそうだったと思う。
始めの幸せは、幼さ故に気付くことなく終わった。
その日は雨だった。前日は快晴だっただろうかは、覚えていない。でも、その日は土砂降りの雨だった。
小学校での地域で、子供とその親との、旅行があった。一泊二日のちょっとしたもの。
行き先は動物園だったかな。夜は大宿に泊まって、子供同士騒いでいた。
遠出になるので、勿論移動は貸し切りバスを出してもらって、行きと帰りを往復した。
帰り。家へと向かう帰路の途中で、突然の雨に見舞われた。夏に降る、土砂降りの雨だった。
酷い雨だった。走行するバスに叩きつけるかのような、大粒の雨が、幾度となく、幾重にも
打ち付けていた。窓を見ると雨粒が張り付いていて、車窓の風景は歪んだ自分の顔を映すだけだった。
連発銃を何機も使い、鉄板に弾幕を浴びせるような、連打音がずっと車内を取り囲み、旅の疲労感と帰り際の倦怠感が、沈黙として、子供たちには詰まらなく、昨日あった元気はどこにもなかった。
そんな中、私はジッと自分の席の窓を見ていた。歪んだ幼い自分の顔が映る、出来の悪い鏡をジッと、見つめていた。
時々、雨粒の合間、またはそれを通して、外の景色を見ていた。
行きと同じ道を走っているか、分からなかったけど、ちゃんと、家に向かっているかな、と思いを巡っていた。
幼いなりの不安感が、窓の歪んだ自分として、映っていたのかもしれない。
不意に、雨音に混じって、違う音がした。
音に気付いた時には、浮遊感に襲われて、衝撃と自由落下。そして、地獄へと叩きつけられた。
旅客バスの墜落事故。
激しい雨で、視界が悪く、道路は滑りやすく、路肩が崩れている事に、運転手が気付かず、崖へとバスは向かっていたのだった。
新聞やニュースなら、そう報じられるだろう。加えて、不幸な事故とか悲惨な現場とか、誇張な表現も付けていく。確かに、そうなのかもしれない。
崖下の川辺に墜ちたバスはボロボロ。乗客はズタズタ。車内はグチャグチャ。
血と雨と泥にまみれ、知り合いと家族の死体にまみれ、私は痛覚すら既に麻痺した体で、朦朧とその地獄に伏っしていた。
見たくも無い光景が、そこにはあっただろう。子供には耐え切れない、悲惨な地獄があったに違いない。
今まさに、死んだ両親、友だち、友だちの両親が、視界の隅々まで、散らばっていただろう。直ぐ隣で押し花に成っていたのかもしれないし、死体の上に自分が、自分の上に死体が、あったかもしれない。
でも、私にはそれが分からなかった。
薄らぐ目には血の色が混じり、視界にはバスの残骸が、甲高い耳鳴りにかき消されるように、助けを求める悲鳴が、あったように思えるだけで、頭の中は、渦巻く死への恐怖に打ちひしがれるばかりだった。
助けて。
そう叫びたかった。でも・・・・・・。
何で?
その思いが強かった。
バスの転落する数秒前に見た、その場面が、強く記憶に残っている。
運転手が運転席に居ないこと。走行中のバスの唯一の扉が開いていること。
そして、倒れた私の目の前に、運転手らしき人が立っていること。
思いを口にする前に、私は意識を失った。
気付いくと、白い部屋にいた。
天井には蛍光灯、タイルの床、白磁の壁、白いシーツのかかった純白のベッド。
何もかも、白で統一された、潔白の世界。
清潔感と言うよりも、潔癖感に満たされたそこは、空気ですら混じり気を許していない。自然のそれではなく、人工的に異物を排除した、酸素と窒素とその他の混合気体が満たしている。
ここには、私と機械が繋がって、存在しているだけ。病院の一室みたいな所。それが始めの印象。
始めの印象が、そのまま続いてくれたら、好かったのかもしれないけど、明らかにここは病院と言える雰囲気が、圧迫的な部屋の白が教えていた。
でも、私は、まどろむ意識と感覚に直ぐに目を閉じるしかなかった。
次に起きた時、そこが白塗りの地獄だったことに気が付いた。
白い地獄は総合医療研究所と言う所だった。
子供だった私にとって、そんなところがあるとは、知るはずもなく、少ない知識のなかで、病院のような所と、位置づけしていた。
確かに、精密機械や、点滴がベッドの周りを取り囲んでいるのは、病院の集中治療室と似ていた。似ていただけで、全く異なった目的の場所がそこだった。
そこは、研究所。
医療とは付いても、医学的な研究をする所だ。
まさに私は、檻に閉じ込められたマウスだった。
まず、違和感があった、二回目の目覚めの時。
その時、私の周りには、機械と共に、白衣が大勢いた。大勢とはいえ、子供の俯瞰が、そう見せたのだろうから、せいぜい、五、六人だったかもしれない。
主治医らしき人が、周りに指示をだして、私の体を検査させていった。
「気分はどうだい?お嬢さん」
彼はそう言って笑った。
私の気分は、いいとも言えず、わるいとも言えず。うまく喋ることができなかった。
体も動かせなかった。感覚が無かったからだ。
白衣たちは、体中に機械の吸盤を張り付け、腕を持ち上げては採血をし、口内を診断したり、聴診器を当てたり、と、内科的な処置を行っていく。
そこで、一番気になったのは、採血で注射をされた時だった。
注射をされるのは、子供にとって、いい事には捉えられない。注射をされることは怖いもの。
逃げようにも、体が動かせないので、目を確り瞑って、針が刺さる光景を見まいとした。
しかし、刺さった感覚は何時になっても訪れなかった。
目をあけて、確認すると、上腕部にゴムが巻かれて、注射器の中には赤い血が、溜まっていくのが見えた。
顔だけ動かせる分、その光景と、感覚の誤差が変だな、と思った。
体が動かないのは怪我のせいだと思った。
違った。
意識が回復して、数日経つと、自分の体の異常が顕著に感じてきた。
痛みを感じない、感覚がない、動かない。
自分の意思で、体を動かせなかった。
半身不随で歩けないどころか、全身不随だった。首から下。指先まで、全く動かせなかった。
その事に気付いた私は、主治医らしき白衣に、怪我のことを訊いた。
彼はやさしく、答えてくれた。
「移植した筋肉が、まだ馴染んでないからだよ」
私はそんなに酷い怪我だったの?
「そうだよ。全身に酷い怪我をして、全身に移植を施している。頭が無事だったから、奇跡的に生きていられたんだよ」
動けるようになれる?
「なれるよ。動きたいと思えばね」
彼だけが、私に話しかけてくれる、唯一の存在だった。おかげで、精神的には幾分か楽だったのかもしれない。他の白衣のように、事務的で、人を実験的に扱う人だったら、私はまともな精神を保っていられなかっただろう。
投与される薬の作用で、殆どの時間を寝ていたけど、全身の包帯を解かれるくらいになった時には、ぎこちなくだけど、体を動かせるようになっていた。
触覚もわかるようになり、痛覚も鈍感ながら、感じられるようになった。痛いと思えることが、逆に安心だった。
包帯に隠れていた自分の肌をみた時、縫い目の無さにも驚いた。抜糸の後も見当たらない、完璧な縫合が、体中に施されているみたいだった。
表面的には治りかけの腕を見て、ふと、違和感に気付いた。
これが、私の腕なのだろうか。
どこらかしこを移植されていると、訊いてはいるけど、その時に私は、どれ程の自身の身体を残していたのか、知るはずも無かった。
One day2
雪が降っていた。
気分は最悪だった。
「昨日の夜が寒いと思ったら、そういうこと・・・・・・」
両手を擦り合わせながら、綾は愚痴を零した。
寒いのは嫌いだからだ。
何かと昨日のミッション中に、冷えるなと思っていたら、案の定の今日は、頬を切る寒さが到来し、粉雪が振っている。
積もることは無いだろう。朝方から降り始めてはいるけど、積もる気配も無く、道に解けていく。屋根が幾つか化粧するだけだろうか。
天気予報。日本の天気図、気圧配置は、西高東低。いや感じに縦線が密集していた。
「関東周辺に気圧線が六本走ってたからな。冷え込むのも当然か」
暖かいコーヒーを啜る、由比島洋一は、今日も紙束片手。一番客は、今日も彼だった。
「寒くないの?」
綾は寒い。暖房を点けたばかりで、店内がまだ冷えているからだ。
それもこれも、連日のように、夜中に呼び出しがあっては、二時、三時に帰ってくるからだ。特に、昨日だ。前日も睡眠不足なのに、また残業が入ったからだ。
おかげで、今日は寝坊だ。開店ぎりぎりまで寝てしまった。
当然、湯沸かし器の作動はさせても、最初は冷たい。今頃は温まっているだろうが、台拭きをぬらした時は、当然の如く冷たかった。皸に成りそうなくらい。勿論、ハンドクリームはタップリ塗っておいた。塗りすぎだった。
しかし、綾よりも、寒いのは洋一だろう。
雪の中、店まで来たのだからだ。体は冷えているのだろうけど、余り寒そうじゃないように、見える。
「寒いよ。でも、地元よりまし」
ホルモンを鍋で食う彼の地元は、そんなに寒いのだろうか。
「出身九州よね?何でコッチより寒いの?」
綾の頭の日本地図には、九州が南の方にある。当然、南に行くほど暖かいはず。南も南にある沖縄は暖かい。
「緯度はこっちが高いけど、北の方は寒いんだよ。特に日本海側。海流の関係かな」
「海流?流氷とか流れてこないでしょう?」
「そりゃあ、流れてこないよ。でも、流氷が来るロシアからの、冷たい海水が、日本海流に乗って来るから、冷えるんだろうね。海側が特に、なんだよ。海の方から風が吹いて、体感温度が低くなる。と言う訳で、地元が寒い」
「なら、ここは回り海じゃない。東京湾に浮かぶ島だけど?」
「そうだねぇ。でも体感というよりも感覚的に寒く感じるんだよ」
「なんか、納得できなわね・・・・・・。天気予報見ると、九州って最高気温高いし・・・」
「ああ、確かにね。実際行ってみるといいよ。真冬の玄界灘に」
「絶対行かない」
今の話を聞かされて、誰が行きたくなるものか。まして、今日は雪の降る、寒い日だ。これ以上寒い想像はしたくない綾だった。
「あーあ、今日は余りお客さん来ないかも」
雪が降るくらいに寒い今日は、余り外には出たくないものだろう。
「だろうな。今日は祝日だしな」
「え?そうなの?」
余りの忙しさに、綾は忘れていた。
「天皇誕生日だよ。そして明日はイブさ」
明日はクリスマス・イブ。明後日はクリスマス。キリスト教でもない日本人にとっての、大イベント日の一つである。
主に、カップルと子供と子供を持つ親。
どれにも該当しない、綾と洋一には全く持って関係の無い日である。
「イブねぇ。お客来るかしら」
土曜も午後三時までだが、カフェは開いている。休みは日曜だけ。
明日がイブなら、出かける人も多くなりそうなので、立ち寄るお客さんも増えるかな、と考えてみる。けど、経営時間を延ばしてみようという気にはなれない、綾だった。
「土日だから、学生は少ないか・・・」
カフェはこの浮遊島にある、私立恒明学園の近く、特に、大学と高校に近いところにある。大学の正門からでて、五分もしないくらいの所に有る。
なので、お客の中には、大学生が昼食をしに来る率が高い。特に、タバコを吸わないコーヒー好きに。
高校生も来ることは来る。大学生に比べれば、利用率も、常連も少ない。
そろそろお昼前で、何時もなら、大学生が来るだろう。バイトもこの時間に来て、三時間ほどヘルプにさせる。
ヘルプ表を見てみると、今日は誰もバイトに入っていない日だった。それもそうだ、祝日を見越して、綾が一人で店番をするつもりだったからだ。
「本と誰も来そうに無いわね・・・」
「休みだしな。社会人ならいくらか、来るかもな」
「あなたは休みじゃないわけね」
「休みなんて無いよ。頭の中は年中無休さ」
旅行で逃げる位しかない、と良い加えて、コップに残っていた、一口分のコーヒーを飲み干した。
相変わらず、洋一の席には資料が散乱している。それらが、小説の資料なのか、はたまた、裏の資料なのか、カウンターからは見えない。綾でも見え難い。
「今日指令から連絡あった?」
綾はなんとなく訊いてみた。
「いあ、未だ何も」
まだ、本部への通達と言い包めの段階なのだろう。それもそうか、昨日解散したのが三時近くであったのに、直ぐに通達はしても、言い包めていたにしても、向こう側の処置が、そんなに早く来るとは限らない。事が事だけに、数日は調整を強いられる可能性もある。
「本部脅しに奔走してるのかしら」
「してるだろうね。お堅い方々の頭を、ガンガンに痛めるくらいにね」
あの声色と態度で言いくるめられる方は、堪ったものじゃないだろう。
「指令の能力って、そういったこと向きなのかしら」
疑問にでたことをそのまま口に出してみる。
「う〜ん、分からないねぇ。確かに、人を言葉で砕き倒すような事をするけど、それが能力であるのか、技術であるのかは、見分けがつかないな」
洋一の客観的な答えでも、どっちつかず。
「ふぅ〜ん。じゃ、誰も指令の能力って知らないのかしら」
「本部のお偉いさん以外は―――。ってところだろう。俺から言えば、アレだけ仕事しているところが、能力の一端にしか思えないね」
「同感。私も信じられないわ」
寝ているところ見たことがない。寝ているとは思われるが、全くそのような場面がない。眠気すら指令からは感じない。
昼間に連絡がきて、夜に報告をうけて、朝方に成果を確認している。どこで寝ているのか分かったものじゃない。
常に働いている。常に何かで動いている。
戦闘に出るわけでもない。調査で界隈を歩くわけでもない。情報処理と情報統合に指令としての指令と命令を、繰り返す。不屈なる男。
「あれだけ、眠いのを感じなさそうな指令は羨ましいわ」
夜も昼も働いているけど、睡眠はとらないといけない綾には、羨ましい限りだろう。
同様に、寝ることすら許されなくなる、職業柄にある洋一も、「ステキなことだな」と絶賛する。
「けど、寝られないのは嫌だから、一生働き続けるのは勘弁してもらいたいね」
「寝られるだけ、私たちの方がいいのかしらね」
寝ないといけないのか、寝なくてもいいのか、寝られないのか、その真意は直接に、指令に聞くしかない。
どうでもいい話を続けるしか、この日を潰すことは出来ないのだろう。と思いながら、取り合えずは、と言う感じに、二人で話を展開させていく。
何時もの昼過ぎに、何時もの暇粒しでしかない。どちらも、今のうちに休んでいないと、忙殺に本当に殺されかねない身なのだからだ。
どちらも死にそうにないということは、秘めておくのがいいだろう。
暫くすると、休日に珍しく、客人が来た。
「こんにちは〜」
間延びした声と共に、カラカラと鈴の音がドアから聞こえてきた。
「いらっしゃい」
と言うマスターこと、穂畝綾はカウンターではなく、客席からの応対だった。
客が来ることを、ホボ諦めていた。どこもかしこも、休みであるし、クリスマスの近い時期だ。皆、商店街の方に出かけているのが、関の山だろうと、予測していたわけだ。
殊更に、学校もなさそうな、高校生が来るとは、常連である彼女がでも、思っていなかった。
常連の顔見知りなので、対応はこうもラフにしても、構わないというべきか、この場合は、ラフな対応こそ、親密感がでるものだ。
「世代ちゃん。今日は休みじゃない?」
綾が質問を投げかけるように、折坂世代の格好は、高校の制服に学生鞄を片で、いかにも、学校帰りに寄り道しています、と言わんばかりのものだ。
質問に対しては、嫌々ながらの感じで世代は答える。
「休みですよ。赤い日付は休日ですけど。中の学校は、それでも行かないといけない時は、行かないと行けなくなるのです」
「ああ、課外授業ってわけね」
数年たっているとは言え、綾も同じ高校の出だ。世代の先輩と言えるが、世代の違いが出ているだろう。
綾の通っていた高校、及び世代の通っている高校は、常明学園の高等部だ。
常明学園は浮遊島の教育機関の中枢たるもので、この島唯一の学校群でもある。幼稚園から、大学院までを、島の中心に整然と建てているマンモス学園と言えば分かりやすいだろう。
浮遊島自体がそんなに広いわけでもないので、ここに住む十代は引越しでもしない限り、この学園に行くことになる。
その学園の内、高等部と大学部となる敷地に綾のカフェが近い。故に、大学生なんかは昼休みや空き時間に、軽食をしに来るわけだ。
高校生はそうは行かないものの、放課後などに、こうやって来る者もいる。
世代がその一人だ。
コーヒー好きな一女子高生として、コーヒー豆を買いにくるのが、いつものパターンと化している常連さんに該当する。
「そうですよ。クリスマスシーズンて言うのに、勉強ばっかりです。進学クラスっていやだぁ」
本気で嫌そうな節で、天井を仰ぐ。
「受験はまだ先なのにね」
「先も先。一年以上後の話です。今からずーーーっと、休みを課外にまわされては、溜まったものじゃないです。受験戦争くそくらえ!」
女の子らしからぬ発現を咆哮させる。
受験なんて、強制されている限り、苦痛なだけでつまらないものだ。彼女もそうなのだろう。
「卒業できるくらいに、出席はしておいた方がいいよ。進学なら、この島の大学部も設備はいいしね」
もっとも簡易的な、進学を洋一は提案する。
医療にせよ、技術と土地柄の条件は、東京湾にあるのでわりといいものだ。
ならば、大学も東京区であり、私立としても、高校の設備を知っている世代及び、同学生にはいい進学先ではある。偏差値も高くは設定されていないというか、受け入れ人数が多いだけだが。
「それもいいですけど、さっさと就職して、身の上を安定させたいです。そんな考えがこの頃出てきましたよ」
「それもそうね。私も、高卒後はここにいるし」
大学に行くよりも、このカフェで働くことが、綾の本願であったから、養父養母のなくなった後も、こうして開業が続いている。
「でも、もう文系のコースに行くことが決まってるんですよね。今更変更って訳にも行かないのよね・・・・・・」
世代は嘆息を漏らして頭を垂れた。
大抵はその学年の半ばで、次学年のコースを選択せざるおえないのが、一般の生徒事情であり、学校事情だ。
「一番の打開策は、就職をどこからか斡旋して、内定してもらうことなんだろうけど、そうそういかないし・・・・・・」
「まあ、老い先まで人生長いし、今は辛抱さ」
受験戦争生徒兵には、慰みにもならないお言葉を洋一から頂くのであった。
良く言うものの、洋一も受験戦争が就職に直接に結び付くようなではない、小説家という職種についているのである。
後言うのであれば、S.I.S.O.に就いている事も、全く持って関係がない。
S.I.S.O.に入るには、主にスカウトによるものだ。あとは、裏社会に暗躍するS.I.S.O.の存在を知り、情報戦でその一員と接触するかだろうか。どちらにしろ、まともには就職できない。
「ううぅ・・・辛抱って、嫌な言葉・・・・・・」
辛さを抱える。確かに文字としてもいい感じでない。
「まあ、コーヒーでも飲んで落ち着いて。注文は何?」
何気に、注文を催促する綾だった。セコイと言うべきか、商売上手と褒めるべきか。
「カフェモカをお願いしようかな。あと、何時ものように特製ブレンド豆を500g下さい」
「おーけー、先に会計よね?」
綾がレジスターに金額を入力し、世代は表示された分の金額を渡した。
「少しまってね。モカを入れるから」
モカ豆のストックが入った瓶を空けて準備を始める。少し甘い匂いが鼻につく。
「じゃあ、由比島さんの席にでもご一緒させてもらいます」
「ああ、どうぞ。折角だし、読者の意見でも聞かせてくれないかな?」
人差し指を立てて答える。
世代は洋一と同席して、注文を待つことにした。
待つ間は、洋一が書いている小説の一部を読んで暇つぶしの一環と共に、彼に貴重な意見を述べる。
一方で、綾が注文のカフェモカと、このカフェオリジナルのブレンド豆を用意する。
「はい、お待たせ。で、コッチが豆」
カップと、コーヒー豆の詰まった袋を置く。
柔らかい渋みと、甘味のある湯気が、カップの中から香る。
「ありがとうございます」
「で、こっちは洋一の」と、更にもう一つ同じカフェモカを置く。世代のカップより渋いデザインで。
「何時の間にしたの?」
「君を呼んだ時だよ」
注文を運び終え、綾はカウンターの奥に戻ると、そのまま家のほうに入っていく。
次に戻ってきた時には、厚手のコートを羽織っていた。
「洋一。多分お客さん来ないと思うけど、店番を頼むわよ。今のうちに買い足しにいくから」
「店閉めしてから行ったほうがいいんじゃないか?」
「今日はもう店閉めよ。まだゆっくりするんでしょう?」
「まあ、そうだが」
「じゃあお願いね。世代ちゃんもゆっくりしていいわよ」
「はい。店番しておきます」
「頼んだわよ」と、一言。寒空の下に身を出して、掛札を『closed』に裏返す。
今日も明日も休日なので、買い足しに行くにも、行く先々が閉まっていることが懸念される。
でも、どうでもいいこと。
綾は今日という誰も来ない中来た、たった二人の常連客の為に、早めのクリスマスケーキでも買いに行くつもりなのだ。
寒い冬の街にホットな気持ちで、買い物にだかけた。
Before 2
何時からだっただろうか。いや、あの時からだ。もしかすると、はじめから・・・。
狂っていた。
誰も彼も。何もかも。
おそらく、私も。
白い部屋は病室。清潔感で圧迫された一個の世界だった。
外は知らない。あの時、私の世界はこの白い病室だけだった。
後覚えているのは、手術室に向かう廊下と行き着く先だけ。
その廊下を何度行き来したのだろう。麻酔が打たれる度に連れて行かれて、起きると包帯がどこかに巻かれている。その回数は最低でも往復したはず。
別段体がの各箇所に何度も手術を施さなければいけないようのな、酷い傷はあったとは思えない。
けれど、腕や足は特に包帯を取って、また巻いての繰り返しだった。
当時の私は、まともに手足の動かせるような体ではなかった。だから、手足を動かせるようになるための手術が何度もあっていると思っていた。
寝たきりで、まったく動かせないのではないけど、食事すら人の手を借りないと、出来ないくらいだった。停止寸前ロボットが無理矢理動かされているような、そんな動きで、自分にイライラした。
もっと、もっと、上手に、巧く、素早く、思い通りに体を動かしたかった。
頭から爪先まで。
全身のあらゆる部分を、筋肉を、骨を、血流を、内臓を、無理だといわれる所だって、何だって、自分の思い通りに動かしたい。
白い部屋に一人残されると、ずっとそう思っていた。無限に感じる、昼も夜も白くてベッドと計器以外何も無いこの世界で、重いだけを体の中に蓄積させていった。
でも、本当ならば、凄くぎこちなくでも体が動くだけでも凄いことだった。奇跡といって良いものだった。なぜ?そんなのは本当に後になって知った。
幾度と重ねている手術。特に腕と足は何度も切っては、縫いを続けているので、神経が末端までつながっているはずが無い。
リハビリもない。それでも、神経系のつながりの無い筋肉を動かしている。それだけでも、私の体は被検体として十分、彼らには移っていただろう。
それ以上のものとして、私はとられていたのだけど、そんなこと、嬉しくも無い。吐き気がするほどに嫌な気分になる。
苦痛なで退屈な日々に、解けていくような感覚。白い部屋に私。当たり前になっていた。
こんなに狂っているのに当たり前のことになっていた。
そんなある日に、全身の包帯が一つも無くなり、手術もすることが無くなった。
右腕の包帯が取られて、前の自分の腕ではない腕が現れた。でも、どうでもよかった。この腕が誰のものだったかは、気にならなくなっていた。それどころか、包帯から露になったその白くて肌理細やか腕がとっても気に入った。
苦して、無感動な日々、私の得た腕はダイヤのような輝きを持っている気がした。
その時、包帯を取ってくれたのはいつもの先生だった。
異常な空間で今まで幼い精神が、壊れなかったのも、先生がいたからだった。唯一の話し相手の先生が私は好きだった。
はじめにこの腕を自慢したのは、先生だった。話す相手が、唯一であったのもあるけど、先生には、一番に自慢したかった。
先生はいつものように優しく、微笑んでくれた。「よかったね。大事にするんだよ」って、言ってくれた。
もっと嬉しくなって、抱きつきたかったけど、言うこと聞かない体だった事を忘れていた。前のめりになって、ベッドから堕ちそうになった。
先生が支えてくれて、顔面を床に打ちつけずに済んだ。少ししかられたので、はにかんで見せた。
包帯をつけていたそれまでの自分は、実は死んでいたのではないかと、思ってしまう。それほど今の自分が好きになっていた。
ぎこちなく、白い右腕を伸ばして、電気に翳す。
大怪我して、何度も手術していて、それでていて傷跡も、縫った後も、ない綺麗な肌をもった腕。
理想がそのまま腕になっていた。
何か思うたびに、一生懸命腕を伸ばして、翳して・・・。一人で喜んで、笑った。
その時、扉が開いた。
そして、淡い幻想が砕け散った。
Broken one day 1
冬場の街は寒い。
買出しに雪の降る外へと、繰り出した綾は、羽織っているコートを右手で掴んでいた。
雪がチラついている。
温暖化とか言われている、地球環境の論争も嘘っぱちに思うくらいの、寒さが身に凍みてくる。厚手の手袋だって欠かせない。
茶色のコートは、夜に身に着けているそれとは違い、当たり前に普通の人々が着るそれだ。
血生臭い仕事をしている綾だが、普段は一般人だ。良くある服装で、女性らしい冬着をして、街の中を、人ごみの中を歩く。
赤いコートを羽織っているならともかく、今は誰も彼女が何人もの命を葬ってきたとは、思いもしない。
左手にはケーキの入った紙の箱。
中にはショートケーキ、ショコラ、ブッシュドノエル。カフェで待つ二人のお客さんと、自分が食べるクリスマスケーキだ。
街のケーキ屋さんで買ったものだ。クリスマスとあって、今日のケーキ屋は混み合っていた。
別にクリスマスケーキを買ってもいいけど、三人じゃ食べきれないだろうと思って、それぞれの好きなケーキを一つずつ買ってきた。
ショートは自分、ショコラは洋一、ノエルは世代の好きなケーキ。
二人とも常連なので、何が好きかぐらいを綾は知っている。接客業に従事している身だ。それくらい分かっていないと、リピーターは獲得できない。
人ごみの商店街を抜け、空を少し見上げてみた。
分厚い灰色がどこまでも空を覆っている。そこから降ってくる粉雪が積もる事は無い。地面に解けて、濡らすだけだ。
「いい雪ね・・・。でも寒い・・・」
体に触れる雪は、ただ体温を奪っては解けていく。肩に名残雪が乗っている。
寒いのは自分の身か、身の上か?
そんな思いも出てきてしまうけど、べつにそんな事考える必要は無いと思い直した。
でも、確かに、今のような生活を続けるのも、どうかと思う。昼はマシだけど、夜の事はマシどころかまともじゃない。夜遅い出勤も嫌になってくるし、気分もいいものでもない。
けど、今の一件は何が何でも、自分でけりをつけたい。何の為にでも誰の為にでもなく、自分の為だろうけど、制裁をこの手で下し、執行の鎌を振るわないと。
と、少し顔が暗くなっただろうか。
「ねえ」
?
誰かに呼びかけられた?
「ねえってば」
みたいだ。
「聞こえてるでしょ?」
「ええ、私に何か用・・・」
振り向くと目の前、いあ、足元に。
「子ども?」
子どもだ。目下には何処にでもいそうな、小学生ぐらいの女の子が厚手の黒いフレンチコートに身を包んだものが、こっちを見上げていた。
綾の所見の感想。その若さが憎い。
「子どもに子どもって言うのも可笑しいものじゃない?まあ、身体は子どもだから仕方ないけど。ああでも、何処かの子ども大人探偵じゃないからね」
「なにこのマセた子。そのネタ自体このご時勢では既に十年前の作風じゃない。正に言った通りね。メンでブラックなドリトル先生にでも危ない薬飲まされた?」
「頭殴られて、カプセルとか飲まされてはないけど、大体同じかしら。しかも比喩が若くないね。’00のSF&コメディー映画ときましたか」
到底、二十代女性と小学生の話には思えない。
「話は聞いてくれそうだからいいけど」
などと、切り返す女の子。
「早々時間もなさそうだから、手っ取り早く用を済まさせてもらうから」
「用?私の店に何か?今日は繁盛しないから閉店したわよ」
「別に繁盛しない貴方の店には興味ないから。用があるのは貴方のほうよ」
「何かむかつくわね。で、何処から来たのかわからない老けたお頭のお嬢さんは、このお姉さんに何か用ですか?」
「ムカツクのはお互い様。どうでもいいけど、話が進まないから、一々突っかからないでくれる?さっきも言ったけど、時間がないの」
「一々突っかかるってるのはそっちでしょ」
顔を近づけて、言いかかる。
「はいはい。でも、ホント時間がないわ」
女の子は三白眼に目を閉じる。
「ほら、さっさとしなさい。折角此処までしてやってんだからさ。少しくらい出てきなさい」
と、独り言。独り言だ。特に誰彼ほかに出てくる気配は、綾には感じない。目配せしても何処にも、それらしい人物はいない。
「なに?連れて来た子は逃げたのかしら?」
見当たらないのなら、そう思うのが妥当だろうか。女の子の呼びかけには応えが返っては来ない。
「いいえ、ここに居るわよ」
などと、女の子は言うものの。
「どこにもいないじゃない。」
周りに気配はない。
「わたしの周りには、ね。連れて来たのは、わたしの代わりになる予定の子なんだけど・・・」
「え?」
「でも、まだ身体に慣れていないのか。そんなのことは無いんだろうけど、引っ込み思案になっていて、今は献身的に私が体動かしてるわけなの。何のことかさっぱり?そうね、でもそういうわけだし、後でわかるからいいわよ」
全く持って訳の分からない子どもだ、というのが、一般人思考の今の綾の精一杯の感想だ。
「ああもう。いい加減出てきなさい!強制的に表に出すよ!」
怒った口調は誰に言うでもない。自分に向かって吐き散らす。
言を言い終えると、三白眼になっていた目がパッと見開く。
濁りなく潤んだ瞳の女の子がそこにいた。
「な、なんなの?」
「え!あぁあぁ・・・」
驚いたのは双方。しかし、女の子の方が大きいリアクションをした。
概視感が違う。と、綾は思った。
目を見開く前と後では、女の子の雰囲気がまるで別人になった。
さっきまでの威勢のいいと言うか、傲慢な少女が、今では控え目というか、人見知りして謙虚に見える。
二重人格なのだろうか。けど、何かが違う。何が違うのか、わからないけど、違うきがする。
この子は誰なのだろうか?
知人でもない。親戚なんて無縁だし、その手の子どもってこともない。
街中で突然声をかけてきた女の子。自分からは誰とも知れないのに、向こうは明らかにこっちの事を知っている。
「あ、ぁあの・・・・!」
「ん」
言いたげに見上げる目が、揺れている。
決意した。一言は――――、壮絶な。
「わっ、私を殺してくれて・・・、あぁりがとうございます!」
「へえっ!」
無理矢理言い切った御礼は、到底御礼にはなりえない。寧ろ、恨みの一言としか取れないことも多々なニュアンスだ。街中で大声では勘違いされるようなものだ。
「殺した」のに「ありがとう」は、呪言のようで、さながら、並べて噛み合う言葉同士にはならない。
しかし、この子の言葉に憎悪醜悪さは微塵もない。それは何故なのだろう。
「はい、じゃあこれで、用は終わりよ」
人格は直ぐに前のものに変わっていた。
「なにそれ・・・どういうこと?」
「どうっていうことって、そういうこと、何だけど、もう時間がないから、説明している暇はないわ」
振り向く人ごみの中。
「さて、用は済んだし、行かなきゃ」
「何処に行く気」
踵を返しながら、女の子は助言する。
「また近いうちに。それじゃ」
そして、人通りのある道の中へ歩み始める。
追う気はない。が、小さな背中に最後の質問をする。
「名前は?」
数歩先で止まり、半身だけ振り向いて告げる。
「浅崎殊那」
浅崎殊那、医研の元所長にして創設者、浅崎禎明の孫にして、医研の実験体だった、首だけの少女。
綾が殺した。その名前の子。
そう名乗った女の子は、再び歩き始め、人ごみに消えていった。
「どういうこと・・・」
同姓同名の他の子なのか、別の子が殊那の名を語っているのだろうか。
そんな筈はない。ありえない。
綾が殺したことを知っているのは、綾を含め、その場に居た三人だけ。予測の範囲をどう広げても、医研の関連者までにしか行かない。
「これも、あいつら絡みなのかしら・・・」
思わず、臍を噛んでしまう。
情報が乏しすぎて、何もわからない。
「そうそう。早く帰った方がいいわ。でないと、お客さんごと、家がなくなってるかも」
視界から消える瞬間、少女の放つ言葉は綾へと―――。
「マキナ・・・」
衝動と焦燥と不穏と不安が溢れ出す、駆り立てる。
立ち止まっている暇はもうない。と。
俊足で駆け出し、Café Clown Jewelへの帰路を疾走する。疾く疾く早く速く。
「・・・・・・・・どういうことなのよ!」
誰に言い当たるわけでもない愚痴を零して、綾は誰にも追いつけない速さと、誰も持ち得ない持久力で、走り続けた。
さるここのカフェには従業員はおろか、店主もいない。今はだが。
Closedの掛札が入り口に掛かっている。閉店だという事、は揺ぎ無い。もうここに客は入っては来ない。
ならば、閉店した店に居るのは、従業員ではないのならば、誰なのだろう。
などと、いらない詮索をしたところで、彼らがお客様ではない。などと、馬鹿げた答えにたどり着くことがあろうか。
彼らは単に、閉店しても居座っているこの店の客に他ならないのだ。
「何してるんでしょうねマスター」
「買い物って行っても、商店街も其れなりに近いし、一時間も経てば帰ると思うよ」
居るのは、スーツの男と近くの高校の制服の女子。テーブルには無数の印刷紙。
「まあ、もう結構たったみたいだし、そろそろでしょうか」
「そうだね。何処まで読んだ?読書が早いわけじゃないとは思うけど、六〇枚は行ったかい?」
「まだそんなに行きませんよ。よんじゅうイクツって所までです」
「そんなものか。チェックしながらだと、読むスピードって落ちるからね」
洋一は軽くメモ書きを紙に走らせる。
彼は、しがない小説家で、このカフェの常連の一人だ。仕事と編集担当との会談に、ここを使う。最も利用率の高い客人だ。
その小説の初稿チェックをさせられている女子高生は、折坂世代。しがない、常明学園高等部の生徒だ。コーヒー好きで、このカフェオリジナルブレンドのコーヒー豆と軽食を求めて、高校帰りに良く立ち寄る、利用客では最も若手と思われる常連だ。
接点は常連と言うだけだが、小規模の飲食店での交流は意外とあるものだ。殊それが常連同士ならば、ということだろう。見知った仲だ。
基、洋一がこの店では有名な常連だからだ。一番奥の席を陣取り、何時もコーヒーと紙に塗れたテーブルに座っている、しがない小説家としだ。
マスターの綾を始めとして、編集担当は勿論のこと、彼と話す人は多い。
ストーリーテイラーであることもながら,ではあるが、それだけではなく、彼がS.I.S.O.の伝達役でもあるからだ。つまり、彼と話している人たちの殆どは、何かしらの連絡を受けていたり、情報を貰いに着ているといっていい。
S.I.S.O.の浮遊島支部は警察署の内部にある。しかし、署内の関係者としてS.I.S.Oの一員である者意外は、基本はフリーで街中に潜伏している。
昼間はカフェを開き、夜に暗躍する綾がいい例だ。
一般人を装った人たちが、警察署へと頻繁に出入りするのは可笑しい。
内部関係者にはパスを見せればどうにでもなるようにはなっているが、外部から見たら、その人は何度も軽犯罪を繰り返す、危険人物か何かでしかない。
殊更に隠匿が必要だ。
そのために、このカフェに彼が居る。
確かに今ならば、電話やらメールでの伝達も出来るが、重要な資料となれば、または法的に持ち出しが禁止されているもの、などなどは、直接見た方がいい。
情報の流出を防げるからだ。
その点で、インターネットは特に危惧すべきツールであったりする。
とは言え、洋一と話すのは、血腥い人間だけではないのも確かだ。
世代のような女子高生も彼と話すのだから。
「でも、由比島さん」
「うん?」
世代がしがない質問をする。
「何で、こんなに沢山文字を書かないといけないんですか?」
「何でって言われてもね。仕事だからだよ」
「いあ、それはそうですけど。でもさ、一枚が30字×40行とで、しかも百枚近くあるようなものを、誤字脱字がないが只管チェックするなんて、どうかしてますよ。チェックもですけど、こんなの書くのって、一、高校生の小論文では考えられません」
ようは、彼女はチェックするのが疲れたらしい。
「まあ、一度に此処までは書けないけど、何度も同じ量をこなすと、これ位にはなるからね」
テーブルに置かれた紙束の厚みを見せる。
それを見る世代は、「小論文をこれだけ書くのは嫌だ」と内心で愚痴る。
「高校の小論文って100から200字くらいかな」
今度は、洋一が聞き返す。
「そうですよ。長くても350から400字までとかですね。それがどうしたんです?」
「昔から思うんだけど、論文書くには短すぎないか」
「『小』論文ですからね。要点だけしか書きませんし、でも時間の掛かる問題ではありますよ」
「まあ、他の問題の回答を書いているよりかは、かかるだろうね。でも、『論文』としての意味はないきがしないか?」
世代は少し考えてみる。
「言われてみれば、そうかもしれませんけど、書いているに変わりないから、いいんじゃないですか?」
「点数換算の為にしかないからね、あんなのは。書いていれば、点数になるようなものだし」
「ええ、配点のある問題ですから」
「まあね。書いて点数もらえる分には、昔から私には楽な問題だったけど。タダ桝目を埋めればいいだしけだし」
それに対し「ええ〜」と否定的な声が上がる。
「桝目埋めるの大変じゃないですか。最後の行とか、先生によったりで、桝の余り具合で点数が引かれたりだし」
「そんなの、句読点とか、接続詞とか、文末の変容でどうにでもなるよ」
「どうにでもなるって・・・」
「うん。最後の二行あたりでね。文章の長さを調節すれば、綺麗に入ってくれる。その前に、どれだけ文章を詰め込めるかが、勝負だとおもうけど、点数漏れを防ぐのに覚えとくといいよ」
考えて、数瞬後。
「やっぱだめそ・・・。ううぅ、やっぱ就職ってしないか」
行き過ぎた結論に至り、テーブルのうつ伏せになる世代だった。
「流石に、諦めるのが早すぎないか?」
「いいんですよぉ。少しくらい現実から逃避させてください」
そう言って、世代は唸った。
「それはどうぞ」
洋一は世代が現実逃避させるのを許す。というか、放っておく事にした。この手の高校生は酔っ払いと一緒で、手がつけられないからだ。
「ああ、そうだ。なんなら小説家でもするか?何か面白いのかければ、編集部に売りくらいはしてあげられるけど」
就職案が一つあがった。けど・・・
「絶っ対、無理です」
候補には乗ることのないものだった。
「・・・だろうね」
洋一は予想通りだと思いつつ、嘆息を洩らした。
「小論文だって、好きじゃないのに、その何倍も書かないといけない小説とか、私には無理難題のオイラーの公式みたいなものです」
訳がわかんない。
「博士の愛したやつだね。でも、それだと、数学も嫌いみたいだね」
直に言う洋一だった。
「ええ、嫌ですよ。サインコサインタンジェントまでならともかく、それに自然数と複素数とかきたらお手上げです。積分とかきたらもっと無理ですよぉーだ」
「おいおい、それで大丈夫なのかい」
「難しい数学できなくても、文系なので平気です。でも、入試はやりたくない!」
軽い受験ノイローゼなのだろう。
「そのうち、そうも言ってられなくなるけどね」
「うう、ホントなんでもいいから、職にありつきたいよ・・・」
あることにはあるけど、その職業を紹介するのは、やめたほうがいい。
スカウトしたところで、給料はよくても、危険極まりない所だからな。
「エスカレーターでここの大学にいくといいさ。あと一年の辛抱ってね」
「そんな・・・」
また、テーブルにグダーッと倒れ込む。
受験とはなんとも、世代にはストレスの大きいものらしい。
一方。カフェの外。
つまり、街ではここに向かって、走ってくるものがいる。
数は三つ。
うち一つが、穂畝綾。
うち一つが、一番早く、ここにつく。
セダンの全スモーク。
微かに聞こえるブレーキ音。
「うん?」
先に気付いたのは世代だった。
窓から外を見ると、一台の車が路上に止まっていた。
「どうした?」
洋一が訊く。
「スモーク車なんて、怪しいですね。やのつくかたがたかな」
黒い高級車にガラスも全部黒尽くめ。世代がそう思ってもおかしくない。
「確かに怪しいね。どこかに取り立てかな?」
「こんなの夜中に、ああいうのって、物騒ですよね」
「まったくだね」
しかし、洋一はふと思う。
「でも・・・」
「でも?」
「ここら辺で、取立てにあっている家は聞かないけどな・・・・」
「へ?」
ガシャーーーーーーーーーーーン
甲高く、ガラスの割れる音が店内に響く。
「何々?ここにオツトメ!?」
「なわけあるか!」
一瞬でパニックに陥る世代を他所に、洋一は冷静だった。
ガラスが床に散らばる。それらの音に混じって、ゴトッと鈍い音。
床に転がる金属筒。
雷管の組み込まれた小型爆弾。
「伏せろ!」
「ぎゃっぁ!」
周りにあるテーブルを蹴り倒し、世代を叩き付けるように床に伏せさせる。
座っていたテーブルが横倒しになり、乗っていた大量の紙が宙に投げ出される。
舞う紙たちが、床に付くことはなく。
閃光と爆音。
膨大な熱量と風圧が、破裂した金属筒のあった場所から広がる。
爆心地のテーブルや椅子は壊れ、薙ぎ飛ばされ、更に他のテーブルや、カウンターの物を壊していく。
風圧で、窓が全部割れて吹き飛び路上にばら撒かれる。しかし、セダンまで破片は飛んでこない。
煙硝が店内に立ち込め、着火点にはまだ火が燻っている。
「いたたた・・・、なんですこれ・・・」
爆発の最中、洋一に抑えられいた世代が立ち上がろうとする。
その頭がもう一度、押さえ込まれる。
「まて、まだ来るかもしれない」
「マスターって、どんだけ、借りてたのよ」
「しらないな。だけど、このまま此処にいるのも危ない」
今は、煙混んでいるが、この煙が薄くなれば、第二の襲撃が始まるかもしれない。
「おそらく、穂畝が炙り出てくるのを待っているのかもな・・・。出てきたところで、トリガーハッピー・・・かな」
「なんでそうなるんですか・・・」
何でと言われても、教えるわけにはいかない。
「さぞかし、好かれているんだろうね」
半立ちになり、カウンター側を指す。
「入り口から出るとまずい。家に上がって裏に回ろう」
世代は頷き、這うようにしてカウンター、其の近くのドアに向かった。
続く洋一も、頭と腰を低くして進む。
右耳を抑えながらであるのは、世代を庇って床に倒れたために、爆音から右耳だけ守れなかったからだ。
(鼓膜は・・・たぶんダメだ)
左でなんとか、音が取れるものの、右はキンキン響いて、体のバランスも巧く取れていない。
右足がグラつくので左足を軸に、腕で床を押して滑るように進む。
「だいじょぶですか!」
後ろを振り向いて、世代が問う。
「いいから、行って!」
こんな時に、心配されても困る。
と、銃声が五月雨に轟く。
「くそ!やり始めたか!」
左足と左手の瞬発力でカウンターに飛び込む。
「なんでですか!」
「どうやら、こっちの事に気付いたらしい。出て来なくても撃ち始めるさ!」
割れた窓ガラスの残りを吹き飛ばし、壊れたテーブルと椅子の残骸に突き刺さっては、その木片を飛ばしていく。
ハンドガンどころか、ガトリングを使った襲撃だ。車一台分の人数にしては、発射弾数が馬鹿に多い。
「どうするんですか!」
世代が指示を仰ぐ。
「ここでジッとしておこう!無闇に動くよりも安全だ」
幸い、カウンターの側面には厚みがある。また、こういった時の為にも合成プラスチック板が組み込まれている。
伏せておけば、銃弾くらい幾らでも、防ぎきれる。
かと言って、このままでいるのも危険がある。向こうが店内に入ってくる可能性だってあるのだから。
「もう!どこの国のクリスマスよ!」
耳を塞いで世代が喚く。
珈琲豆の入ったビンが割れて、中身が床とカウンターに散らばる。
堕ちてきたものに悲鳴は上げるものの、世代はそれなりに落ち着いてはいた。
着弾してカウンターがガタガタ振動するが、銃弾が貫通してくる気配は無い。
時間にして十秒もあっただろうか、長く感じられた銃撃が止んだ。
直ぐに洋一が動く。
「早く家の中に入って!」
なるべく小声でハッキリと指示する。
指示に従い、世代はボロボロになったドアを押し開ける。
二人は家の中に土足であがる。
・・・と、音が近づいてくる。
シューッと、何かが飛んでくる音が・・・。
振り向く洋一に眼に飛び込んできたものは・・・
対戦車ロケット弾RPG。
「ふざけんなーーーーー!」
洋一の罵声の轟きは、着爆した火気兵器の轟きにかき消えた。
Broken one day 2
大きな衝撃音と爆発を目の前にした。
熱を帯びた風が迫る。
顔を隠した片腕を下げる。そこに。
「なに!」
到底、平和気取りの日本では見る事の出来ないような、光景がそこにあった。
道路に飛び散ったガラス、鉄筋の剥き出しになったコンクリート、散らばっている木片に、燻る火の粉、焦げ臭い硝煙の匂いと、料理に失敗した時のような焦げ臭さ。
自宅と店が半壊して、煙を上げていた。
「どうなってるの・・・」
手に持ったケーキ箱が地面に鳴る。
綾の目の前で、自分の家が半壊し、店が瓦礫と火煙にまかれている。
今は自分だけしか住んでいない、亡き養父母から受け継いだ家が、自ら切り盛りしてきた店が大破したという、精神的な衝撃が彼女を襲う。
養子になってからの居場所が、養父母との思い出が、カフェを経営してきた苦労が、全て吹き飛んで、瓦礫とかしていた。
止まっていた車が走り出す。
店の大破で気が付かなかった。いあ、視界には入っていたが、気にも留めなかった。
「あいつら・・・っ!」
医研の差し向けと決め付ける。当たりだ。綾の家を破壊しにくるほどに因縁のあるのは、彼らしかいない。
加速する車を追いかける。
始点距離差は10m。車が先にいて、それを人が追いかける。
綾とて、すでに40km/h近くまで加速している車に追いつくのはできない。いあ、出来るが、仕留めるのに時間がかかる。
車が止まっていた場所へと駆け寄る。
差は20mに伸びる。
綾の足元に落ちているものを拾う。大量に落ちているその一つを手に。
狙いは40m先の車。
オーバースロー。指先の感覚をミクロ単位で調整し、真っ直ぐに確実に的を射るように抜く。
弾丸のごとく、空の弾莢が70m先の車目掛けて行く。
「ち、一人見られたな」
「気にするな。どうせ分からない」
運転席と助手席の男が話す。
後部座席にもう一人と、大量のマシンガン。
店を蜂の巣にするのに、弾を際限なく使ったと分かるほどに、車内にも弾莢が入り込んでいる。
すでに急加速で、法定速度を無視したアクセルの踏み込みで、近くのカーブに消えるつもりだ。そうすれば、追うにも追えない。
いや、既に追うことは無理だ。同じように車でも、曲がり角に消えれば難しくなる。
「ターゲットはやったか?」
「人が中にいた。Closedの掛札もでて、中にいるのは店主だけだろう」
「誰か来た時点で切り上げだ。ばれるとサツがうるさい」
車をカーブを曲がれるぎりぎりの速度まで、減速させる。
「つかまってろ!」
カーブを曲がる前に、運転している男が、他の男に告げる。荒い運転だが、今は確実に逃げるのが先決だ。誰にも見つかってはならない。
カーブに差し掛かり、ハンドルを切る。
綾と車の差が100m―――。
弾莢が車に着弾する。
ハンドルを切る瞬間に、ガラスの割れる音が車内に響いた後、地面をタイヤが擦る音が甲高く鳴る。
「何か撃ってきやがったか?」
助手席の男が後ろに確認する。
「後ろのガラスに穴が開いている!」
後部座席の男が言うように、銃でぶち抜いたような穴が、バックフロントガラスに一点を明けていた。
でも、一発だけしか、入ってきていない。カーブを曲がりきる寸前に、入ってきただけで、心配は無いだろう。撃ってきた奴がサツでももう追うことは不可能だ。
助手席の男が、前方に眼を戻す。
振り向きざまに見た運転席の男が、斜め後ろに頭を垂れていた。
白眼斜視で額に赤い点を穿った顔が。こちらを。
「いっ!」
運転したまま死んでいた。
流し目で、前に視線を戻す。
フロントガラスの運転席真正面。血に塗れた空の弾莢が、こっちに空洞を見せて突き刺さっていた。
運転手を失った車は、車体の制御も失って、道行く人の前に横転した。
「っぐうぅ・・・・」
横転して、逆さまになった車から、一人男が這い出してきた。助手席にいた男だ。額に血筋が垂れている。
運転席のは勿論だが、後部席の男も這い出てこない。死んだかも知れないし、気絶しているだけかもしれない。
そんな事はどうでもいい。どうでもいいのだ。
綾にとってはどうでもいい。
這い出した男を爪先に見ながら、右手にジャラジャラと握った弾莢を弄ぶ。
死と喪失感、怨念と恐怖の両眼が男の目を抉る。
「あぁぁああぁぁぁあああぁあ・・・・・」
這いずって逃げようと思っても、体が言う事を聞かない。竦んでうごけない。
弾莢の底に人差し指が添えられ、親指と中指で挟む。腕を頭上に上げて、振り下ろせば弾丸となって、男の頭をぶち抜く。それで、男は終わる。
綾の腕がゆっくりと上がっていく。
指先に力と殺気が篭められていく。
見上げると、そこにいるのは修羅羅刹。
弾莢が放たれて終わる。
振り下ろしかけた腕が、別の腕で止められていた。
「やめておけ」
指令、最上十徳が綾の右腕を掴んでいた。
「指令!」
腕が振り下ろしかけのままで、動かない。
否、動かせる。指令に腕を握られたままでも、衝動に任せて、腕を振り下ろせば。手首のスナップだけでも十分に男を殺せる。
動かないのは、彼女の理性が制御をかけているからだ。
「こいつをやったところで、意味は無い」
指令が綾を説得する。
「店を壊した奴を見逃せと!」
「それでもだ!お前の感情をぶつけるのは他にいるだろう」
「っ・・・・・!」
掴まれた腕が、放される。
綾は握っている弾莢を全て道路に叩きつけた。弾莢がはじけて、アスファルトもはじける。
呼吸を整えて、感情を落ち着ける。
「落ち着いたか」
「何とか」
答えて、顔を上げる。
さっきよりは幾分か穏やかな表情になったが、鋭さのある眼光は今も瞳に宿っている。
「でも、やることはやらせてください」
と言って、綾は這いつくばっている男の胸倉を掴んで、車に埋まっていた半身を無理やり引き釣り出す。
「話す事は話してもらう」
睨まれながらも、男はほくそ笑む位は出来るようだ。
「話してもなにをだ?」
「どうせ医研の小間使いって事は分かっているわ。でも、今までと今回は意味が違う。そこのところを話してもらう」
今回と前回までの相違点。
今までは、医研が密輸と犯罪を起こしているのを、綾たちS.I.S.O.がその場で彼らの一味を処理してきた。情報戦での分は完全に綾たちが一線前に出ていた。そして、襲撃を仕掛けて、向こうのSPに迎撃されるのがパターンだった。
しかし、今回は違う。
今まで、後手から反撃をしていた医研が、あろう事か、綾のいる店を襲撃しにきた。S.I.S.O.としても、そのような自体は想定はしていたものの、対処が遅れた。情報戦ではリードしていたのがこちらだと言うのに。
間が悪かったのだ。綾が出かけていなければ、そして、指令が席を外していなければ、情報が入るのが、もう少し早かったら。それらの積み重ねが、事態を引き起こしたのだ。
「雇われただけの俺らが、知っていると思うか?」
男が白を切る。
「そうね。そんなの期待できないか・・・」
元から、SPが情報を持っているとは思っていない。一応聞いたまでだ。
更に詰問をする。
「じゃあ、依頼の標的は?」
「標的?みりゃわかんだろ」
店が悉く破壊されている。もしも、綾が出かけずに、店に居たとしたら―――。
「店と私。どっちが主標的?」
「・・・」
浅崎禎明のSPのように、直接、綾を狙うものがいる。医研にとって、綾は邪魔者であり、脅威である。彼女は医研に相応の恨みを持ち、医研に対しての攻撃手段であるからだ。
しかし、今までの事から思うに、彼らが彼女に刃向かうには、彼らは脆弱過ぎると言える。
彼女への襲撃と迎撃は悉くだ。
それでも、穂畝綾を消すならばどうするか?
やるなら、暗殺が一番いい。忍び近づいて、刺し殺すなりするのは、まず無理だろうが、遠距離からのスナイプなら十分に確率は有る。それでも、行動スピードと感覚機能が破格な彼女を仕留められる確率は0.幾らかになる。
それと、試すならば、手段はもう一つ。
住んでいる家ごと封殺することだ。
「世間体を保つなら、暗殺するのが上等。でも、あなたたちがしたのは、テロリスト紛いの破壊活動。事を上手く進めたいなら、やっぱり暗殺するのが、セオリーよ」
「・・・なのしるかよ。アンタを「殺れ」としか聞いてない」
「ならそれこそ、暗殺。家ごと破壊するメリットはない。本当はどっちなの」
少し口を結ぶ。数瞬の間を置いて、男が答えた。
「店だ」
「そう。どうして?」
「元々、アンタは医研に目を付けられている。それはわかるよな?貴重なサンプルだと聞いて・・・ぐぅっ!」
胸倉を掴んでいた手が、首に掛かり直る。
「元々、アンタを殺せるなんてあいつら思ってねぇぞ。よく分かる。殺せるはずがねえし、俺がまだ生きているのも奇跡だ」
「そうね。後で殺すかもしれないけど」
「「店を破壊しろ。アンタが中にいて死んだらそれでいい」てのが、依頼内容だ。前回で帰ってこなかった奴らを考えると、割かし安全な仕事だ。一人もう死んでいるから、そうともいえなくなったがな」
一人とは弾莢に貫かれた、運転手の男の事だ。
「私たちに刃向かう時点で、無謀よ。こっちの組織には私より危ない人が沢山だし」
「だろうな。能力者の集団って裏には有名所だしな。シーソーってんだろう?悪行人にはサツよりもたちが悪いって話を聞いてる」
「悪行を秘密裏に叩きのめすのが、こちらの仕事だからな」
と、指令が口を挟む。そして、また携帯電話に話しかける。
事故と銃撃があったのを、公に洩らさない為に、手配の連絡を続けているのだ。治安のいいと言われている日本で、仮にも東京都の土地で銃撃テロ行為があったとなれば、メディアで問題にされかねないからだ。
「で結局、医研の目的は何?」
「チャチャをして、こっちに来させるようにしろってことだ。あいつら、アンタに殺されたいくらいに、アンタがお気に入りらしい」
「・・・そう。じゃ、最後。依頼主はだれ?」
「慰神宗次だよ」
「慰神・・・!」
その名前を聞き、綾の手に力が入る。
「げはっ!」
男の首を絞めてしまった。慌てて手を離すと、男は地面へと咳き込んで、涎を垂らした。
「ごめん。ちょっとチラカ入った」
誤るが悪びれはしない。
慰神宗次。綾が最も憎悪する。最も殺したかった人間。既に死んでいるはずの、医療研究所の創設者の一人にして元副所長。
サイレンが近づく。パトカーが近くに止まり、事故現場と、破壊された店の周りを封鎖した。
警察が終始よく、現場を処理していく。
とはいえ、警察医自体もS.I.S.O.の手中だ。運転手の男は事故死になり、店も犯人不明の不審火に処理されるだろう。
首尾よく、情報は変えられて、ここの治安は、テレビでよく聞くニュースの一例的なものとして、周辺住民に認知させられる。
現場指揮官に、指令が話を終えて、綾に話しかける。
「男は、警察に事故車の同乗者って事で、引き取ってもらうことになった」
「そう。で、不幸にも運転手は事故死ってことね」
「そういうことになる。久しく、出てきてみたら、面白いことになってきたな」
肩を鳴らして、指令が笑う。
「私はおもしろくないわ」
沈んだ声と、怖い顔で綾が応える。
「冗談だ。まっ、私が出てきたのは、基本的に仕事の報告と、お前に命令しにきたからだ」
といって、持っていたケースを綾に渡す。
綾がケースを開ける。
中に血色の紅いコート。赤みのかかった黒いボディーのベレッタが二丁。
「本部の許可が下りた。医師団体、総合医療研究所の事実上の解体、公的抹消が決定した。武力保持の疑いと、非人道的危険行為を鑑みて、お前に団体の完全破壊を命ずる」
綾がケースからコートを取り出して、今着ているコート着替える。二丁のベレッタを回して、コートの裏地に着いているホルスターに納める。
「決行は今日の終わり。明日の始まり。0000時。総合医療研究所にてKTOだ」
冷徹な目で向き直り、彼女が答える。
「はい・・・」
死の赤を身に纏い、その裾を翻して、彼女は、地獄への準備に向かった。
「さて・・・」
綾を見送った後、事件現場に残った指令は、瓦礫になった店の前に向かった。
足元には大量の弾莢が転がっている。それを一つ拾って、弾種を見る。そして、捨てる。
自動車事故の処理はされていても、まだこちらには手をつけていない。監制は敷いて、人が立ち入れないようにはしたものの、まだ何も手をつけていない。
紫煙が細くたなびいていはいるが、火事の心配はなさそうだ。消防関係を呼ぶ気はない。
指令は唯、現状を確認して、支部の処理班に連絡を入れる為に来たのだ。
「と、前にだ」
瓦礫に足を突っ込んで、蜂の巣になったカウンターへと進む。更にその裏へ。
半分吹っ飛んだ扉が有る。店から、家の中に続く扉だ。
店は崩壊しているが、家は住めないくらいに破壊されてはいない。精精、入り口が焼け焦げている程度と、弾痕がいくつもあるだけで、生活にはなんら支障はないだろう。
足でボロボロの扉を蹴破って、土足で家に上がる。床が黒く焦げ付いている。
入って直ぐに開いた部屋があった。こちらも壊れてはいないがドアが開いたまま煤けている。
ドアの開いた部屋を覗く。
「遅かったですね、指令」
瓶詰めされたコーヒーの並ぶ、部屋に洋一と世代が座っていた。二人とも、煤で吹くがボロボロになっている。洋一にいたっては背広の左半分が焦げている。
「襲撃受けて、十分も経ってますよ」
「手配を先に進めただけだ。もうココ一体包囲した」
「この人は?」
世代が尋ねる。
「最上十徳。指令って呼んでる」
棚に預けた背中を起こす。爆発で左肩から背中半分を痛めているので上手く起き上がれない。世代が肩を貸して漸く起き上がれた。
「だいじょうぶですか?」
肩を貸しながら、世代が心配を掛ける。
「原稿が大丈夫じゃないよ」
泣きたくなる程に。
「身体の方は・・・」
身体よりも、締め切り前の原稿紛失が自身の体よりも、重症だった。最終チェックを世代にさせている所だったので、印刷分のは全て擦りなおしだ。他にも作りかけの資料とか、その他諸々がダメになっている。
「五体満足。一週間したら元通りに動けるさ」
「支部に戻って、ヒーリングを受けるといい」
大人二人の会話を聞いている世代だが、どうにも話の大本が全然わからない。洋一に尋ねてみる。
「あの?」
「うん、なんだい?」
「話が見えないんですけど?警察の方ですか?」
「半分正解、半分外れ」
返答に、首をひねる。世代の様な一般高校生が裏社会の組織に精通しているわけでもない。しかし、この銃撃戦に巻き込まれたのだから、S.I.S.O.について話さなければならないだろう。
外へと向かいながら、指令が話した。
「私達は警察でない。S.I.S.O.という国連の非公開組織だ」
「国連!母体がでかい!」
国連で非公開と考える。この後の政治的圧力が自分にどれだけかかるのかと、恐怖が先走る。
「そう怯えなくてもいいよ」
洋一が世代を諭す。
指令は話を続ける。
「そう。国連の組織と言うことで、まともな所だと考えてくれ。信憑性は薄いかもしれないが、チャントした組織だ。」
「半分正解てのはどうしてですか?警察じゃないんでしょう」
「警察ではないが、私たちの属している支部が警察署の内部にある。警察に混じって別の仕事をしている。今日みたいな事もそうだ。警察に根回しして、捜査の情報を改竄しているところだ。そうでないと、日本のメディアは五月蝿いからな」
「う〜ん・・・。治安を秘密裏に守るみたいなところですか?」
「大体そうだ。今回は単にメディアから隠すためだが、基本はもっと違う。悪い組織を潰して回ったり、法では裁けないものに処罰を下したり、と、警察の権限を遥かに越えた武力行使をも辞さないのがS.I.S.Oだ」
「・・・・・・凄く怖い組織ですね。ヤクザみたい」
世代の感想を聞いて、指令は笑った。
「ははははっ。かもな。そこいらのヤクザよりもチャントしているぞ。葉っぱを密輸しなくても給料は国連からだからな」
「給料いいんですか・・・・・・」
「興味があってもやめたほうがいいよ。激務で時間も関係ないから」
洋一がそういうのに対し、指令が反論する。
「そうでもない、個人の時間はちゃんと鑑みている。人材不足名だけだ」
「人材不足?」
それには洋一が応えた。
「そうさ。世代ちゃんは能力者をしっている?」
「はい。エスパーとかサイコメトラーとかでしょう?」
「S.I.S.O.に入る最低条件が、何らかの能力があること。技術資格だけじゃなく、ちょっと別の力を持ってないと入れないようになっている。そういった人をスカウトして引き込むわけだ」
「ふ〜ん。学校の生徒役員とかですか?」
「ほう、この島の能力者のことを知っているのか」
指令が世代に感心した。
「何人か能力者を知ってますから。他の生徒には秘密ですけど、何か力を持っている子は子同士で集まっていますから」
「そうだろう。まだ、能力者のことは一般化に至っていない。隠すなら徒党を組むのが効果的だ。それに、この島は他の地域と比べて、能力の発現者が多い。若者が特にその割合を占めている。熟すれば、彼らをスカウトするつもりだ」
「スカウト・・・」
世代が考え込む。
話しながら歩いて、店の外に出た。警察はまだこっちには現場の処理にきては居ない。
「しかし、よくもここまで壊されたな。穂畝の店が瓦礫だ」
「対戦車ロケット弾ぶち込まれましたからね。おかげで、背広がこんなんです」
「こんなにされるなんて・・・。どれだけ怨まれているんですか、マスターは」
「ああ、そういや綾もS.I.S.O.の一員って、言ってなかったね」
世代が目を開いて驚く。
「そうなんですか?」
コクリと頷いて、洋一が説明する。
「俺は伝達役をしている。カフェの何時もの席にいて、指示とか情報などを引き渡すのが主な仕事。情報取引も俺の仕事だから、コンタクターだ。綾はエクスキューター」
「処刑執行人、断罪者って意味ですね」
テストでは発揮でいない英単語の勉強の賜物がここで発揮された。
「その意味の通り。綾は荒事に対して、武力行使役で、容赦なく悪人を殺したりするのが、彼女の仕事。いがいだろう?」
「以外ですね・・・。そんな感じには見えないのに」
世代の中の綾の記憶は、気立てのいいマスターの姿しかない。人を殺せるなんて思いも寄らない。
「穂畝は戦闘能力に関してのスペシャリストだ。まともに殺し合って勝てるヤツラは、誰も居ないくらい強い。純粋に肉体だけで、世界の誰よりもだ」
指令がそう言うとおり、そういった面での能力者が彼女だからだ。
「でまあ、彼女が担当している仕事があるわけだけど、大仕事でね。怨み買われているのは元々仕方ないんだけど、とばっちりがこっちにきたわけさ・・・・・・御免ね」
そう謝罪する洋一に、世代は首を横に振った。
「生きているから大丈夫です。洋一さんが爆発から庇ってくれましたし、私の心配より、自分の身体を心配してください」
「・・・うん、尤もだね」
彼は頷いた。
指令は携帯をかけて、支部に連絡する。ヒーラーを準備させるためだ。洋一の身体は、火傷と負傷で重傷にある。彼も肩を借りて、立っているのがやっとだ。
「あの・・・」
世代が指令に声を掛ける。
「なんだ」
「この後私は?」
「記憶を消すとかもありだが、黙ってはくれるだろう?勿論、慰安の為にお金が送られるかもしれないが、黙って受け取ってくれればいい」
「じゃあ、黙っておく代わりに、条件を聞いてくれませんか?」
大きく出たと世代は自分でも思う。
「なんだね?」
「スカウトしてください。能力者ならいいんでしょ?」
指令と洋一が驚いて、目を丸くする。
「世代ちゃん。話し聞いたろ?やめたほうが身の為だ」
洋一が待ったをかけるが、世代はそれを振り切る。
「話を聞いて、興味が湧きました。要は警察に紛れて、仕事をするんでしょう?だったら、私が高校を卒業した後で、警察に就職することになって、その仕事をすればいいんでしょう?婦警って結構憧れてるんです」
そう言い寄る世代に、指令は判断の為に質問をする。
「なら、能力を見せてもらってもいいか?使える能力なら、即採用してやるぞ。特に、エクスキューターにもなれそうなら、大歓迎だ」
頷いて、世代は洋一から離れた。
「暫く、自力でお願いします」
洋一を一人で立たせ、壊れた店の敷居近くに歩く。
「さて、どんな能力か。サイコキネシス?メトリー?テレポーテーション?」
指令の言葉に、彼女は答える。
「全然違いますよ。どう言ったらいいのか、わからない力ですから。此処一帯に人は着ませんよね?」
勿論来ない。と指令の言葉を聞いて安心する。
目を瞑って、深呼吸。
集中する。対象は大きい。可也疲れそうだけど、やるしかない。寧ろ、やりたい。
標的、水準、再確認、選択・・・・・・
目標は十五分前、キツイ、でもギリギリやれる。暫くは力を使えないかもだけど、それでも今が大事だ。
世代の能力が開眼する。
今までの出来事を否定し、何もなかったかのようにするその力が。
洋一の火傷と負傷はなくなり、背広も綺麗な元の状態に戻る。
今までの惨状も、何時もの街並みにある風景に戻る。
ここであった、一五分間のことが、全てなかったことになった。
A line
思えばこの日をどれくらい待ちわびただろう。
おそらくは、医研を抜け出してからずっとかも知れない。S.I.S.O.に入ってからは絶対にそうだろう。
復讐。それが果たせる。もう直ぐだ。
心は躍らない。感情は高まっているが、気分は氷点下を降り、絶対零度へと向かっている感じがする。
淡々と準備が整っていく。
持てるだけの装備をフルに持っていく。
ハンドガン、ナイフ、マシンガン、小型爆弾、各種弾丸の入った弾倉。
何時ものミッションと同じで、ベレッタだけでは物足りない。今回は何時ものミッションとは違う。
戦争だ。私と医研の戦争。
いや、そうじゃない。私の一方的な虐殺。底にいる誰も彼も駆逐蹂躙する。全てを一切の予断なく殺しつくし、跡形もなくなるほどに破壊する。
神にも匹敵する最大権限。その権化を体現し、破壊と言う方法で秩序を作る。
なんて、大層なことを掲げている私達だけど、私がしたいのは唯皆殺しにしたいだけ。
因縁がある。恨みがある。憎しみがある。私をこんなにも狂わせる根源がそこにある。
さて、準備はこれくらいで、行きましょう。
これから私は今までの私を殺して、新しい私に再誕するのだから。
医研への襲撃の前に、私が医研を憎む理由を話しておかないといけない。
私は医研にとっての実験体であり、披検体だったということは、今までの筋で出てきている。
そう。私はバスの転落事故から助けられたわけじゃない。転落事故から連れ去られたのが正しい。
私の幼い記憶が証明する真実は、あの事故は元から計画されたものだったのかもしれない。
運転手は医研の差し向けで、遠出する子どもたちとその親を人気のない山道で転落事故を起こし、私みたいなのを連れ去って、実験材料にしたに違いない。 バスを雨で増水した河川近くに落としたのも、連れ去った子達を行方不明者と誤認させるための工作と考えられる。
事実、私がその類として、事故のリストに行方不明者として乗っている。
運がいいのか悪いのか、私はその事故で助かり、医研に拉致された。研究所を逃げ出した後は普通の暮らしを得たのだけど、結局、狂ってしまった。
やっぱり、運が悪かったのかも。どうしようもなく、こうなってしまったのは、それだけの因果を私が結ばれていたからなのかと、諦めてしまいそうになる。
それを断ち切るための復讐なのかもしれない。
これから語られる過去は、私からは・・・・・
話したくない。
Before 3
白い部屋。白いベッド。白衣。
潔白の病室。扉一つで窓がないその部屋。清潔感だけが唯一のいいところだが、実際にはいいものではない。
天井も壁も床も蛍光灯の光も白い。ドアも白塗りのスライド式。ベッドのシーツも白。九割九分が白い部屋。
精神的に異常を来たすような部屋だ。
白はストレス感の最もない色だと言われる。赤の興奮作用や青の沈静化などと違って、白には刺激を与える度合いが低い。しかし、人間は何らかに刺激を受けて、つまり、正でも負でも常にストレスを受けることで、行動を起こす動物である。白で多い尽くされた部屋とは、人間の行動欲を促す作用の乏しい部屋だ。
白い部屋に長時間居る人間はどうなるか。それは大きく二つ。『ストレスの少なさ』に異常なストレスを感じて、発狂する。もしくは、無気力感と倦怠感に苛まれて、酷い躁鬱に陥るかだ。
だが、この部屋に居る少女はどちらにもなってはいない。長時間この部屋で過ごしているのにも関わらず、精神は患ってない。
それは、この部屋に残された一分の刺激。医療機器の色と自身の持つ肌と髪の色。そして何より、自分が怪我人として治療を施す医師たちが、この部屋を出入りすること、偶に来る自分の担当らしい先生との話が、幾分も精神を平生に保ち続けた結果だ。でなければ、狂気に囚われていたか、自閉の殻に閉じこもっていたか。
大怪我をしていた少女の身体は、今では傷跡もないほどに完治していた。
体の自由は利かないけど、リハビリをしていけば普通の生活を送れるようになるに違いない。
しかし、ここは病院でもなく、診療所でもなく、クリニックでもなく、ましてやリハビリステーションでもない。
白衣は少女の怪我を治したわけでもない。彼らにとって、少女とは大切な実験体。人形と言う言葉が最も当てはまる。
人形とは何か。
白い部屋。白いベッド。白衣。その中に汚点が一つ。
群がる白に弄ばれる人形。
清潔な白の中で、少女は汚れていた。
少女の心は砕け散ていた。
完治してからの少女の扱いは酷かった。
実験体としているのだから、そうであるのが彼らにとっては普通なのかもしれない。
モルモットに毒を注射して殺そうと、脳を半分切除して反応を見るのも、同じことだというかのような扱いをする。
殺さないという点があるのは、少女が貴重なモルモットだからだ。
人体としての実験はすでに終わっている。リハビリも満足にしていない少女への実験は、表面的な変化を見るものだ。
毒を注入して、どうなるか。薬漬けにして、どうなるか。電流をながして、どうなるか。身体に圧力をかけて、どうなるか。環境の変化に対する反応は。酸素を薄くしていって、どうなるのか。水中でどれだけ息がもつのか。重力を上げていって、何処までもつのか。熱に対する強さは、どれほどか。寒さに対する強さは、どれくらいか。
人体実験を死なない手前までに設定して、詳細な記録をしていく。脳波、心拍数、血圧、心電図。筋肉反応。血流反応。サーモグラフ。大事に大事に、一つずつ。貴重なデータを。
実験をしてデータを取り、次の実験まで部屋で回復させる。部屋での反応も見る時は、監視カメラでチェックし続ける。
実験のない時は玩具として扱う。
泣こうが喚こうが、動けない唯の人形として遊ぶ。血が通っているだけで、あとは玩具屋さんに並ぶ人形と変わりはない。抵抗なんて出来るはずもない。好きにする。
使ったら、ベッドに戻す。
ここに少女の人としての価値はない。有るのは、実験体としての貴重価値と、人形としての利用価値の二つ。それだけだ。
ベッドから転げ落ちて這いずる。
「ぐぅっ・・・うぐぅぅうぅ・・」
年齢からすれば、理解を遥かに超している自身の状況に精神はボロボロだ。そのくせ、身体はどれだけ実験にさらされても、健全を保ち続ける。
ここに居るのは医師の集団だ。身体の病と傷を治すのに長けているのは当たり前のことだろう。しかし、心の病と傷を治すことには長けていない。寧ろ、心を破壊し尽くす事には何処よりも右に出るだろう。
少女の壊れた心が紡げる残り少ない感情が、無理矢理動かない身体を動かす。
ここは嫌だ。痛いのは嫌だ。辛いのは嫌だ。
白い部屋が酷くにごって見える。砕けた心の一片一片を嫌悪感が繋ぎとめている。そして、それだけが少女を突き動かす。
部屋はそれなりに広い。まともに動かない身体を床との摩擦で押して進んでも、扉までですら時間が掛かる。
扉が開く。自動式だが、少女はその反応位置まで達していない。
白いモノが入ってくる。少女の目には白衣を着た唯の白い人が見えているだけだ。顔も性別も体格も全て区別できなくなっている。
白衣が近づいてくる。
爪先が近づいて、顔にめり込む。
視界が暗転した。
蹴り飛ばされて、扉から遠ざかる。
顔を上げると、更に蹴られる。
蹴る。また蹴る。もっと蹴る。爪先で腹を抉るように、甲で胸を叩くように、踵で背中を打ちつけるように、動けない少女を何度も蹴る。
蹴られる身体を腕で庇うことは出来ない。上手く力が入らないので、腕ごと身体を蹴られるだけ。腕も踏みつけられて、また蹴られる。
「実験台が逃げるんじゃねえよ!」
白いモノが何か言っている。
「皆で可愛がってやってんだ。何も出来ないくせに役に立たせてもらってんだろ。感謝しろ!」
よく聞こえない。頭がぐらぐらする。
「ベッドで指でもしゃぶってなぁ!」
体が浮く。命一杯蹴り飛ばされて、ベッドの縁当たる。
「ちっ・・・・・・」
舌打ちして、白いモノは部屋から出て行く。
ドアが開くと、他の白衣がいた。
「おい、被検体MAKINAがベッドから落ちた。元に戻しておけ」
それだけが、少女の耳に聞こえた。
そう命令して、どこかに行ってしまった。
「・・・・・MAKINAじゃない・・・・・」
少女が呟く。か細い声で聞こえないほどの小さな声で。
「わた・・・・し・・・・・MAKNAじゃな」
MAKINAと少女は呼ばれている。白衣たちが付けた少女の呼び名。
被検体MAKINA。人形の意。
「・・・・・MAKINAじゃない・・・・・・」
そう呟き続ける。少女の名前ではないからだ。
しかし、少女は本当名前がない。
本当の名前はもう忘れてしまった。
「大丈夫かい?」
目が覚めると、男がそう言った。
「・・・先生?」
先生と呼ばれた男が微笑んだ。
少女には白衣の顔は見えない。ただ、この先生と呼んでいる白衣を除いてはだ。
「平沼に酷く蹴られたみたいだね。でも、大したことなくてよかったよ」
彼は少女をベッドに戻して、蹴られた傷を診てくれたのだと、少女は理解した。オキシドールの臭さが残っている。
「ごめんね、暫く他のところに行ってて、来れなかった」
頭を撫でてやる。長いこと伸ばしっぱなしの手入れされていないボサついた髪が、クシャクシャと揺れる。
久しく優しくされて、少しだけ少女の瞳に生気が戻る。
「そうだ。何かお願いを聞いてあげよう。お詫びに何でも行ってくれ」
先生はそう言って、少女の顔を見る。
少女はその言葉に縋り、一つの願いを言う。それが最も、彼女の望むことだから。
無理矢理、身体を起こす。背中を先生が支えてくれる。
「・・・出たい」
少女は呟く。血の塊を吐くように。
「ここから出たい・・・・・・ここはイヤ!」
枯れた果てたと思っていた涙が、溢れる。頬を伝って落ちる。
先生の目を見る。
凄く悲しそうな目で少女を見ている。
「・・・・・そうか」
軽く頷いて、少女の身体を引き寄せる。
無表情に泣く少女を抱きしめてやる。少女は抱き返せない。ただ、涙を流し続けるだけ。
「わかったマキナ。絶対に出してやるよ・・・・・」
先生はそう言って、更に強く抱きしめる。今の彼に少女を癒す事のできる、唯一の方法だと思って。
少女には、これがここで初めての愛情だと思った。顔が見えないけど、先生も泣いている気がした。
涙が止まりそうになかった。
少女は先生に抱えられて部屋を出た。
他の白衣に見つからないように、隠れながら廊下を進んでいくのは無理だと考えて、片手に銃を構えて走る。
前に現れる白衣には銃を突きつけて脅し、後ろから来る白衣には、後ろに威嚇射撃をする。それでも追ってきたり、道を塞ごうとするものは、本当に弾を撃ち込んだ。
「出来る限り、捕まってて」
片手に少女を抱きながら走る。振り落としてしまうかもしれない。
少女は力の入る限りに、服を掴んで揺れに耐えた。
弾が切れたら、弾倉を捨てて銃身を噛んで、他の弾倉を差し込む。
出来るだけ、最短で外に出られるルートを進んでいく。
緊急セキュリティーで、目の前の自動ドアが閉まる。
電子機器に弾を撃ち込んで、無理矢理閉まったドアを開ける。
ドアの先は、薄暗い。
広い部屋で横は暗くてよく見えない。入ってきた入口から向かいの出口にかけて伸びるオレンジ光が、ぼやりと頭上から照らしている。
「もう少しで、出れるよ」
そう言って、又走り出そうとした。
目の前の出口が勝手に開いて、暗い部屋に光が差し込む。光の中から人型のシルエットが一人、二人へと歩いてくる。
ドアが閉まって、またオレンジの光のみが部屋を照らす。
「困るよ。勝手なことされちゃあさ」
そう言いながら、白衣の男は歩いてくる。
銃口が向けられていることにはお構いなしに、堂々と正面に立つ。
「慰神宗次・・・・・・!」
「何だ?何時からそんなに偉くなった?私を呼び捨てにするくらいだ。浅崎を蹴落として所長にでもなったか?」
冗談を言いながらも、慰神の目は彼を見下している。
「黙れ外道!この子に辛い思いさせた張本人だろう!お前だけはココで殺す!」
「コロス?殺すとくるか。そんなにMAKINAが大切か?唯の一被検体だろう?」
更に一歩近づいてくる。
「ここは人を何だと思ってる!モルモットみたいに人体実験しやがって!」
「だからどうした?ここは医学の為にあるんだ。多少の犠牲はつきものだろう?優秀な人間が劣等な人間を使って何が悪い?いってみろよ」
また一歩近づく。
「何処までも腐ってるな・・・・・・」
「肉も腐って美味しくなる。私が腐っているのではなく、ココが元から腐っているだけだろう?ココにいるお前も腐ってるに変わりないんじゃないかなぁ?」
また更に一歩近づく。
引き金が弾かれて、撃鉄が下りる。
破裂音が響く。頭を狙って撃った。
が――――、
「撃ったのかな?」
何事もなかったかのように、慰神は立っていた。
「避けただって・・・」
慰神の立ち位置が一歩分左にずれている。
「避けたよ?そんなヘナ弾で仕留めようとおもったのかなぁ?」
さっきいた場所から、更に距離が詰めて、懐に入ってきた。
「くっ!」
「ほら手術だ」
右手に持ったメスで腕を切る。銃が手から落ちる。更に少女を抱えた腕を蹴りつけて、押し倒す。
「くそっ!」
切られた腕を庇って起き上がろうとする。
銃口が額に当てられる。慰神が落ちたのを奪ったのだ。
「だめだね。君は私より若いだろうもっと頑張らなきゃさ」
イヤらしい顔を近づけて言い捨てる。
「至近距離で銃弾を避けれるんだよ・・・・・・。バケモノかよ・・・・・・」
つばを吐きかける。それも頭を傾けるだけで、避けられた。
銃を握ったままの手で顔を殴りつけられる。
「そんなことで逐一驚くな。お前手術中だ」
肩にメスが刺さる。
「がぁああああ!」
「おっと、すまない。麻酔を忘れていたよ」
アハハハ大声で笑う。
「ああ、ホント君は面白くないな。MAKINAのほうがよっぽど面白いぞ」
と言って、慰神は少女の首を掴んで、先生から引き剥がす。
「うぅ・・・・せ・・ん・・せい・・」
「その子を離せ!」
蹴りが腹に入る。
「俺がバケモノとお前は言ったな?本当バケモノなのは誰だと思う?」
少女を空中で揺らしながら言う。
「MAKINA、お前はのデータは十分に人類の境地を超えた。素晴らしいバケモノだ」
慰神が謳う。
「やめろ・・・・!」
先生が唸る
「ステキだったよ。沢山のデーターを提供してくれた。楽しませてもらった」
「やめろ・・・!」
「だから、ご褒美だ。見てみなよ」
「やめろぉお!」
叫び声が木霊すると同時に、部屋の明かりが一斉に点いた。部屋の隅々まで光が行き渡る。
円柱の水槽が幾つも並んでいるのが見える。その水槽の中に何かが浮かんでいる。
肌色やピンク色の何かが。
「どうだい?気に入ってくれるかなぁ」
慰神が水槽の一つ一つに指差しながら少女に囁く。
「あれが、お前の腕だったもの。あっちが足。その隣が心臓。指がないけどアレは手だよ。あっちに指が浮かんでる」
指す水槽に首を向けられて、嫌なものを見せられる。
少女は思う。あれが、自分のものなのか。自分の身体はここにあるのに、水槽に自分の体の部品が浮かんでいる。
それじゃあ、今ある体はなんなのだろう?
「それともっと、お前にみてほしいのは・・・・・・・」
反対側の水槽を見せられる。
「・・・・・・お前の身体の材料になってくれた子達だよ」
腕のない子。
足のない子。
臓腑がはみ出ている子。
半身がない子。
全身の皮膚がない子。
どれも、少女と同年代。男の子も女の子も関係なしに、並んで浮かんでいる。
少女が水槽の中の子達を見て、有らん限り目を見開く。
そこに浮かんでいる子達は知っている。
転落事故したバスに乗っていた同級生、親友。クラスメイト。
みんなの身体は自分の材料。
腕も、足も、胴体も、自分のものじゃない。
じゃあ。自分は。
頭の中で思考が弾けた。
「あ・・・・ぁああぁあああぁぁぁぁぁあぁぁあ・・・・ぁああああああぁああぁあああああああぁあああああああああああああ!」
少女は発狂した。
それを見て慰神は笑った。
「アハッハハハ!いいよお前は!」
「なんてことを!」
叫ぶ先生に銃を向ける。
「何って、どうなるか実験しているだけだろう?精神も医学の検地だ。自分の身体が自分のものではないと分かった衝撃が、どういう事になるのかって事だ。この場合・・・・・・」
「おらあぁ!」
肩に刺さったメスを抜いて横に凪ぐ。
メスを持った腕を銃弾が貫く。
「ふん。つまらない!」
落胆しながら、引き金を引こうとする。
「あっ、そうだ!」
指を止めて、慰神は一人納得する。
発狂して叫んでいる少女を立たせる。
自力で立てない少女は両腕をつかまれて、半立ちになる。
「こいつには早急に手術が必要だ。君が出頭してくれないかな」
そういいながら、少女の両手に銃を持たせ、引き金に指を乗せさせる。
「・・・・ああ・・ぁぁ・・ぁあぁ」
「大丈夫。アシストはしてあげるから、確り持って」
「あぁあああぁあ・・・・・ぁああぁ・・」
引き金に指がかかった少女の手の上に、手を乗せて引き金にも指を一緒に掛ける。
「さあ、手術開始。確り握っていくよ?」
ゆっくりと引き金が絞られる。
「ああぁあぁあああああぁぁぁぁ!」
少女が首を振る。
撃ちたくない。
撃ちたくない。
でも、身体が言う事を聞かない。指先が止められない。
男の指に潰されるように、少女の指は引き金を引いた。
パンッと、乾いた銃声。
先生の胸を抉り、血滴が飛ぶ。衝撃で後ろに倒れる。倒れたから身体から血が流れ始める。
撃った。
先生を撃った。
私が先生を撃った。
私が先生の胸を撃った。
私が先生の胸を撃って――――、
―――――――――――――――殺した。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
声が出なかった。
「アハハハ!アハハアアハハハハハハハッハハッハッハハアアアハッハハハッハハ!」
慰神は大音声で笑い踊った。
「いいよ!手術成功だ!アハハ、MAKINA!お前は私の最高傑作だ!」
銃を投げ捨てて、部屋を出て行く。
「また今度会おうね。部屋には誰かに連れていってもらいなよ。アハハハッハハハハハッハハハッハハハッハ」
笑いながら慰神は部屋を去った。
少女と倒れた先生が、部屋に残った。
少女は自分に起こったこと、自分の自身のこと、自分がしたことに苛まれて、泣いた。
声もなく、涙も流すことなく泣いた。
涙が本当に枯れ果てて出なくなっていた。
慰神宗次が去った後、白衣たちが部屋に入ってきた。二人の処理に取り掛かる。
「怪我人出しやがっていい様だ」
「MAKINAは部屋に連れて行け」
「こっちはどうする?」
「虫の息だぞ」
先生はまだ生きていた。
「焼却するか実験室で解体か、好きにしろ」
「じゃあ、裂いて中身をホルマリン漬け」
四人の白衣がそう決める。
少女にはその光景がテレビ画面のように映るだけ。画面の向こう側には何も出来ない。
一人の白衣が落ちている銃に気が付いた。
「お、いいもんあんじゃん」
銃を拾うとモノ珍しいそうに見る。
弾倉を取り出して十分に弾の装填されていることを確認。再びセットする。
「こいつ何処から持ってきたんだ」
「横領じゃないの?」
「じゃねえ?こんなもん持ち込みやがって、おかげで怪我人だらけだ」
銃口を向ける。
「おいおい!何する気だ」
「大丈夫だ。どうせ死ぬんだから、お返ししてやろうって訳だよ」
「一発だけにしてよ。後で解体すんだから」
「わかったよ・・・。頭ぶち抜けば死ぬよな」
目の前で、また先生が撃たれようとしている。今度は引き金を引くのは自分では無いけど、頭を撃たれれば確実に死ぬ。
今度こそ先生が死ぬ。
私が撃ったせいで動けない。だから死ぬ。私のせいで先生が死ぬ。
「そういや、こいつMAKINAの世話役だったよな。変わり誰がするんだよ」
「じゃあやろうっかな。四六時中可愛がってあげたいし」
「また壊れるまで遊ぶ気か」
「いいじゃない。楽しいみ。少しずつ心も体も壊してあげる」
「そんじゃ、決定。でも身体の方は・・・壊れないっか・・・・・・」
遊底を引いて、撃鉄を寝かせる。
引き金に指をかけて、標準をあわせる。
倒れた先生の半身を一人が起こして、的のようにする。
「じゃあ、一発お見舞いしてやんぜ」
額と銃口が一直線になっていく。
引き金が引かれた瞬間、撃鉄が下りた瞬間、銃声が響いた瞬間、先生が死ぬ。
死ぬ。
殺される。
誰のせい?
私のせい?
白衣たちのせい?
先生は私に優しくしてくれた。
ここで唯一人の人間。
私が好きな先生。
私の我がままで、ここまで来て、怪我して、私が撃ったせいで死に掛けて、白衣に撃たれて、死ぬ。
イヤ・・・・・
イヤイヤイヤイヤイヤイヤイヤイヤイヤイヤイヤイヤイヤ!
自分がここで弄ばれるより、先生が死ぬのはイヤだ!
こいつらのせいで!
何もかもこいつらのせいで!
皆死んだ!
友だちも、クラスメイトも、私の身体も、皆死んだ!
皆、こいつらのせい!
こいつらのせいで先生が死ぬ!
こいつらに先生が殺される!
「逝っちまえ」
皆・・・・・・・私の・・・・・・せいで・・・・・・
引き金に遊びがなくなる。
そのカチリという音。
少女の頭の中で大きく響く。
全身の感覚が研ぎ澄まされていく。
腕も足も指先の末端まで、筋肉の一つ一つ、内臓の動きも血液の流れも、さっきまでよりも、今までよりも、超越する身体感覚が意識に入ってくる。
引き金にかかっている指先が止まって見える。全ての動きがスローモーションに思えるほどに緩やかだ。
直ぐ近くにメスが落ちている。
このまま何もしなければ、先生が死ぬ。
ならば―――。
引き金を絞っていく。
引き金の反発を感じた瞬間。鋭く何かが通り抜けた気がした。
「うん?」
違和感が生じる。銃を持った右手に感じた。照準器から目を逸らして、手を見た。
銃が指ごとズルリと落ちた。
右手の指が親指を残して、付け根からなくなってしまった。
「どおおなってんだよぉっ・・・・・・・・・」
叫んだ瞬間、首筋から生命が溢れ出す。熱い赤色の噴水が視界を覆って、全てが見えなくなった。
「なになに?」
「おっ・・・おい」
「どうしたんだ!」
残った三人が慌てふためく。
目の前で、いきなり首から血を吹き上げて一人が倒れていく。
勢いよく吹き出る血が前にいる少女に降りかかる。
右手には血の滴るメス、左手には血塗りの銃が握られている。
血を浴びて、患者服が点々と赤くなっていく。ボサついた髪が湿っていく。
少女が顔を上げる。顔に血滴が付いて頬を滑る。
血の涙を流す眼が残虐の限りに透き通っていた。
「こいつが・・・やったのか・・・・・」
「なんで立ってんのよ!」
少女が血溜まりの床から一歩を踏み出す。
血溜まりの中でピクピク動く身体、目障りなので頭をぶち抜いた。
破裂音と共に、血がパシャリと顔に跳ね返ってくる。
少女は、三人白いのが残っていることを認識した。
「まずは・・・・・・」
左にいる男。
右手のメスを投擲する。
ザックと男の眉間に刺さる。
それを見て他の二人は逃げ出そうとする。
血溜まりの跳ねる音が響いた次には、少女は男の目の前にいた。空中に飛んでいて、顔と顔が同じ高さになる位置にいる。
刺さっているメスを握る。眉間に刺さったまま左から右へ一一閃。
横回転で更に綴り二閃。
男の顔が眉間から上下に割れる。
両目が見えなくなった。
「ああああああああああああああああ!」
ない眼を押さえて、喘ぐ。
「五月蝿い」
一言呟いて、少女は男の心臓を撃ち抜いた。
バッと大量の血液が華散る。
「次」
視界にいる女。
逃げようとしている横に間合いを詰めて蹴り飛ばす。
「きゃっ!」
水槽に当たって悲鳴を上げる。
尻が床に付く前に、胸を袈裟懸けに切る。
切られた胸の間から白い骨とその向こうに動くものが見える。
切り口に、銃口を突き込む。
「やぁっ!やめて!お願いだから、そんなことしないで!」
泣きながら命を乞う。しかし、ここでは命の尊さは微塵もない。だから少女は言う。
「いやだ」
引き金を引く。
銃弾が心臓を貫き、背中を付きぬけ、水槽の中で赤い糸を引いて止まる。
女の背中から流れる血が水槽を濁らせる。
「最後」
出口へと最後の男が逃げる。あまり足が速いとは言えない。バランスがメチャメチャに走る。
照門と照星と標的を一直線に。
胸を弾丸が貫通する。
出口を目の前に男が倒れていく。
足が縺れて、後ろを向きになる。
逆手にメスを持ち、少女が瞬時に近づく。
メスが胸に突き刺さり、飛び込んだ勢いで出口横の壁に押しやる。
「がはぁっ・・・」
吐血する。
開いた口に銃口を突っ込む。
「はがぁがあふがぁ・・・」
「いやだ」
引き金を引く。
血と脳漿が飛び散って壁に華が咲く。
血糊を垂らす銃口を口から引き抜く。
立ち上がって、部屋中を見渡す。
死体が五つ。どれも血だらけで、無残な死骸を晒している。
少女は自分の両手を胸の高さに上げ見た。
手も袖口も、銃もメスも真っ赤に染まって、怪我もないのに酷い重傷を負っている気がしてくる。
初めて人を殺した感想としては。
なんとも思わなかった。
「MAKINA・・・・・・・」
「・・・・・先生・・・・・・・」
少女は持っているものを投げ捨て、まだ生きている人の所に駆け寄った。
「先生、私・・・!」
自分の罪を悔いる眼が彼を見る。
「いいよ。慰神が撃っただけじゃないか。君のせいじゃないよ」
「でも、私がっ!」
頬を撫でてやる。
「動けるようになってよかったじゃないか・・・・・・」
「・・・・・・・・・」
少女は無言で頷いた。
「・・・悪いけど、俺のほうが動けなくなった。だから、一人で逃げてほしい。できるよね」
先生を見捨てることになるが、少女にはそれがどうしようもない事だと分かった。もう殆ど先生の手が冷たくなっている。助からないとありありと分かる。
「んっ!」
無言で何度も頷いた。
それを見て、彼は安心した。
「いいこだ。MAKINA・・・・・・・」
「・・・・・・・MAKINAじゃない」
「うん?」
少女は最後に一つだけ我侭を言う事にした。
ここから連れ出してくれると言う約束は叶わなかった。だから、それとは別のもっと簡単なお願いを言う。
「私、・・・・・・MAKINAなんて名前じゃない!もっと別の名前がいい!」
そう言うと先生が目を見開いて驚いた。
「・・・・・・そうだね」
目を瞑って少し考える。
「綾。ってのはどう」
「綾?」
「そう。俺の家系は皆、一文字で名前をつけられている。俺も命って書いて『みこと』だから、君は綾」
白衣のポケットから、自分のネームプレートを出して渡す。
「・・・・綾」
プレートに書かれた文字を見る。
つけられた名前の意味を吟味する。それは多分、先生と家族になることなのだと思う。
「気に入らないかい?」
少女は首を横に振った。
「うんうん!綾でいい!」
少女は兄に抱きついた。
「・・・・・こらこら」
命は苦笑して、軽く妹を抱き返した。
「新しい家族に抱かれて死ぬのって結構いい死に様だ」
そんな感想を洩らしながら、視界が薄れて見えなくなっていく。
綾が涙を流している感じはしないけど、凄く泣いている気がした。
「・・・・・じゃあ、お別れだよ。上手く逃げ出して、街のカフェに行くといい。そこにと父さんと母さんがいるから・・・・・・」
「・・・・・分かった」
目を閉じる。
「よろしく言っておいてくれ。綾・・・・・」
腕が背中から落ちていく。微かに聞こえていた心臓の音も、もう聞こえない。
「・・・・・・・・・・・・・・・・」
実の家族がバスで死んだ時にも、白衣たちを殺した時にも感じなかった感覚が心に染みて来る。
綾は初めて、これが死だと知る。
後にも先にも、これ以上の死を感じることは出来ないだろうと思う程、胸が苦しかった。
兄の身体を強く抱いても、抱き返してこない。それでも命一杯抱いて、吐くように、声が枯れる果てる程に泣いた。
涙は流れることはない。代わりに、血の涙が頬に張り付いている。
どれだけ泣いていたのか。そんなには泣いていないと思う。でも、一生分は泣いてしまった気がする。
手に握ったネームプレートに『穂畝命』と書かれている。それを強く握って、ポケットに入れた。
死んだ命の懐から、弾倉を取り出した。
「ごめん。少し、家に帰るのが遅れる・・・・・・」
投げ捨てた、銃とメスを再び手に取る。
部屋を見渡す。
水槽に浮かぶクラスメイトの身体と、自分のものだった身体。その他多くのもの。
血だらけになった部屋の中心で、心を落ち着かせていく。
息を洩らして、確りと唇を閉じる。
綾は宣言する。
「みんな、仇を必ず討ってあげる」
銃弾とメスを手に、赤色の少女が復讐を誓った。
数十分後、慰神宗次の管理する研究所は虐殺の限りを尽くされて、火の海と化す。
生き残った人間はほんの僅か。
運よく、別の所に出かけていた研究員と、逃げ出した実験体の少女、そして総合医療研究所の副所長。
実験の真実をその功績は、火の海に飲み込まれた。
外は雨が降っていた。
綾は、雨で誰も歩いていない街の中をフラフラと歩いた。
偶に誰かとすれ違っても、血まみれの患者服を着た少女を気味悪がって、避けていく。
雨のおかげで、幾分かは血が流れ落ちたけど、服に染み付いた血痕は落ちない。
フラフラと兄に言われた場所に向かう。
何処にあるか知らない自分の家へと。
カフェだと言っていた。しかし、この街は元々住んでいた町ではない。初めて見る軒並みと、ビル群がどこか違う国のように思わせる。人だけがここを日本だと教えてくれる。
どれだけ、歩いたかわからない。思いつくままに、歩いていた。
ただ、街の中心に行けば、家へとたどり着ける気がいた。
ビルの犇く街を抜けて、学校が見える。
授業の始めだか終わりだかわからないけど、チャイム音が聞こえるところまで、近づいた。
足が動かなくなった。雨に濡れた道に膝を折る。そのまま、水溜りにうつ伏せで倒れる。
右手を開く。兄のネームプレートが見える。
(もう・・・・・歩けない)
雨の中、道に寝てどうなるかは分かる。でも、自分はおそらく、どうにもなりはしないだろう。
(疲れた・・・・・・少し休んでから、家に帰る・・・・・よ・・・・・・)
乾いた鈴の音が雨の中に響く。
綾は、目を閉じて眠りに落ちた。
目が覚めると、雨の中で寝てしまったのに、凄く暖かかった。硬いタイルの感じもない。柔らかい寝心地がする。
何時も見ていた白い蛍光灯と白い天井じゃなく、洒落た円形の蛍光灯と、木梁の天井が見えた。
「気が付いた?」
優しく声をかけられる。
振り向くと、幾分か年老いた感じのする女性がいた。
「あなた。この子が起きたわよ」
女性は壁の向こうに呼びかけた。
少しして、部屋のドアが開いて、白髪交じりの男性が入ってきた。
「起きたか。なんて名前だ?」
いきなりだけど、聞かれたので答える。
「綾」
「そうか。俺は穂畝聖。こいつは碧だ。」
二人の名前を聞いて、直ぐにわかった。
自分が新しい家に帰って来たのだ。
それから、色々聞かれた。
自分の事。
これまでのこと。
兄のネームプレートを持っていたこと。
話せることだけは話した。
研究所のことは、あまり話したくなかったので、話さなかった。
確かに二人は兄の父母だった。
兄のことを話すと、二人は納得してくれた。
既に息子が研究所の事故で死んだと知らされているとの事だった。
息子に代わって、私が家に来た。
直ぐに私は、養子として穂畝家に迎えられた。実質的に、命の妹になったのだ。
兄に代わって、養父母と暮らすのが、今後の私の役目だと考えた。
それから、近くの学園に通い。家業のカフェを継ぐために、学校から帰っては店の手伝いをした。学校のないときは一日中店で、店の経営を養父に、接客を養母に教わった。
高校に行っている間に飲食業務に関する資格は取り終わった。調理師。食品衛生管理者。栄養士の資格も獲った。
高校を出た後、大学には行かなかった。養子だからと言うわけじゃないけど、この店を切り盛りしていきたいからだった。
研究所から出るまで、絶望に満ちていた私は、新たな希望を持てた。そして、人生で一番幸せだった日々を過ごした。
二十歳になって成人式のあった翌月。コーヒー豆の新しい仕入れを見てくるといって、養父母は出かけた。
私は店のノウハウを完全に教え込まれているので、一人で店を回せれたし、二人も、私に店を託してくれた。
夕方。二人が帰ってこないことを知った。
店のテレビの中では医療研究所の功績が讃えられていた。
この日から、正常に戻ったと思った運命の歯車は、確実に崩れ始めていた。
養父母二人の葬儀には、親戚は誰も来なかった。もとより、この街までくるはずもない。それに、穂畝と言う姓は私を残して、絶家と化していた。
兄が生きていたのなら兎も角、女の私では姓を残していくのは難しいことだ。
葬儀に参加してくれた人たちは、カフェの常連さんが殆どだった。
励ましも貰ったけど、色々と言われた。
特に、葬儀だって言うのに、娘の私が泣かないのには酷く不審に思われたようだ。
葬儀が終わって、参列者はみんな帰る。
骨もお墓に納め終わって、供養もすんだ。
家に入っても誰もここにはいない。
喪服のまま、暫く家の前で立ち尽くした。
夕闇に街が染まり、何もかもがあやふやな光景と化す、逢魔が時。
コート姿の男が話しかけてきた。
「尋ねたいことがある」
私は男に「なに?」と訊いた。
「十年前の総合医療研究所の虐殺についてだ」
最上十徳と名乗る男は、私しか知らないはずの事を知っていた。
そして、私も知らなかった事も知っていた。
あの狂気染みた場所で狂わずに、私を助け出そうとしてくれた兄がS.I.S.O.の一員として、医研に潜伏していたこと。
それは、私が誓った復讐がまだ終わっていないことの知らせ。
自分が能力者であることは既に分かっている。だから、あの場で誓ったことを果たすために、私はS.I.S.O.に入り、どこかに置き忘れた銃を再び手に取った。
それから更に二年。S.I.S.Oとカフェの両端で仕事をこなして、今まで来る。
今年。医研に不穏な動きが、今まで以上に露になってきた。
そして、クリスマスイブの今日。
総合医療研究所へと向かう。あの時の誓いを果たす為に。
私は、再び殺戮をここで繰り返す。
「今度こそ、全てを消し去る」
兄のネームプレートを胸にしまって、P90に弾倉をセットする。
0000時。ミッションスタート。
前回とは比べ物にならない、虐殺処刑開始。
Last Mission
「はじまったか」
男が呟く。歳は二十代そこらだろうか。
部屋の中はなんとも不気味に暗く、赤い。
男はこれまでの研究の集大成を眺めている。
赤い液体の入った小さな水槽が幾つも並ぶ。その一つ一つに人の首が入っている。殆どの水槽に子どもの首が入っていた。
それらに囲まれるように、一つだけ、大きな水槽がある。その中にあるものを男は眺めていた。それこそが、彼の集大成だからだ。
「逃げなくていいの?」
水槽の中にいるその子が、直接頭に話しかけてきた。
「どうせ逃げれない。あれも俺の最高傑作の一つだ。お前がここで、あれがここ。そうだろう?」
男は自分の頭と胸を指して、そう言った。
「死ぬのが怖くないのか?」
「ああ?そんなもんどうでもいい。俺は一度死んだんだ。そして、生まれ変わって俺がいる。『シ』の概念のない俺がいんだ」
グネグネと笑う男を見下げて、その子は嘆息した。液体の中ではあるが息苦しさはない。
「そういやお前。外に出してやったとき何処に行きやがったんだ?」
男の質問に対して、そっぽを向いて答えた。
「別に。あいつが行きたいところがあるって言ったから連れて行ってやっただけ」
「あいつ?誰だよ」
「殊那だよ。浅崎殊那。浅崎禎明の孫で、あんたが首ちょぱにした実験体」
男は訝しげ訊いた。
「ああ?なんでそいつが出てくる。あの首は禎明が盗みだしただろう」
「その首が死んだから、私が殊那の魂をこの身体に持ってきた。あいつの肉体使ってるみたいだから、適合しやすかった。」
「おいおい。生まれて直ぐに能力使えんのか。ハハハ!それはすげえ」
男は笑いながら、狂喜する。
「すげえ、魂とか全然医学に関係ねぇけどよ!じゃあなに?お前は二重人格ってか二重存在なわけだ」
「そういうこと。あんたが私を生み出してくれたけど、私には迷惑なの。生きるなんてメンドクサクて仕方ない」
「なんだよそれ?じゃあ、禎明の孫と人格を代わって、自分は万年寝太郎ってことか」
「正確には魂を入れ替えるの。身体の主導権を殊那に渡してやる。元々、あの子の身体みたいなものだし。そうすれば、私は楽に生きれる。今は殊那が不安定だから、私が表に来てるだけ。」
男は嘲笑した。自分が作ったものが予想以上だからだ。
「なんて奴だよお前は・・・・・・。これは面白いぞ。うれしい副産物が沢山できた」
狂喜する男を見下して言った。
「はぁ・・・。全く、なんて男に降ろされたんだ私は・・・・・・」
自分らしくもなく、溜息なんて吐いたと思うのだった。
その態度が気になるらしく、男が尋ねた。
「なんだよ?作ってやったのによ。何様だよ」
そう言われて、赤い水槽に浮かんだ少女は答えてやった。
「神様だよ」
それを聞いて、男は大声で笑い始めた。
男の笑い声を聞いて、少女はまた溜息を吐いた。
赤い水槽の部屋があるのは地下だ。その上では、爆音と銃声が怒涛のように響き渡っていた。
S.I.S.Oの殲滅作戦が展開されているのだ。
戦力はたった三人。
その内の一人。血色を纏った女性が悠然と歩いていく。
両手にはマシンガンP90を二丁。出てくる白衣たちを蜂の巣にしていく。
全長505mm重量2900gのP90を軽々と扱い、正確に一人一人の頭を撃ちぬいて行く。
今のところ、重火器か何かで仕掛けてくるものはいない。
綾は、医研の正門から入って門番を殺し、施設の窓を連射で破壊しまくった。
更に、中にいるヤツラを炙り出すため、小型爆弾を割れた二階窓の中に、幾つも投げ込んだ。
後はパニックに陥った白衣たちが、外に出て来る所を、正面玄関から撃ち殺す。
始めに出てきた白衣が撃たれたのを見て、他の白衣は散り散りに逃げようとする。が、無防備な彼らを仕留めるのは、なんとも簡単なことだ。
両手の引き金を絞ったままにして、水平に腕を閉じて、開く。秒間15発で発射される弾丸が、二丁の銃口から火を噴き、視界にいる誰も彼もに穴を増やしていく。銃口下から放たれるピンポイントレーザーの赤い光に当たった次には、弾丸が当たるのを約束されている。
正面玄関で殆どの抗うこともできずに死んでいった白衣たちの死体が山のように積もっていく。玄関前だけで人の防衛壁が完成した。
「まだつまらないわね」
綾は一人愚痴って、死体だらけの玄関先を歩く。
『そこらじゅうに狙撃手がいます』
耳につけた通信機から連絡が入る。
既に見えている。100m先の棟の屋上でこそこそしている奴がいる。他にも合わせて、四人はいるのが分かった。
『私から見えるのは殺っておくから、近くにいるのは神丘君がやっておいて』
指示を出しながら、狙撃弾を避ける。
動きが見えているなら、彼女にはどうってこともない。
右手のP90を捨てて、愛用のベレッタを取り出す。M92FS Elite IA2 ピジョンブラットルビーの様に光沢を放つ深紅の遊底が現れる。
既に、薬室には弾が装填してある。照門に照星を合わせて、更に目算で距離修正。弾の飛んできた方向に撃つ。
『あ!俺の標的が獲られた!』
どうやら、当たったらしい。
他に見える狙撃手にも同じように撃った。
四人全ての狙撃手を撃ち落した。
「そっちはどう」
『二人やりました』
一人獲られましたけど、と神丘は小言で付け加えた。
「更級君は?」
もう一人の殲滅者にも尋ねる。
『分かりません。多分撃たれたと思うけど、何か裏口の人たち物凄く好戦的だから、ドンドン撃ってくるんですけど・・・』
どうやら、裏口を担当した更級という男の子に医研の主戦力が行ったらしい。
『問題ないみたいですね』
神丘から言わせれば、問題ないらしい。
『酷い!神丘さん、撃たれまくる身にも成ってくださいよ!』
『お前の場合は、撃たれる方は良くても、撃つ方が痛い目遭うだろうが』
『弾が飛んでくるのは変わりません!てか、ステキにランチャー撃ってきやがりましたよ!』
マイクに音を通すまでもなく、建物の向こう側から爆発音が轟いた。
「派手でいいわね・・・」
若いっていいなとか思ってしまう綾だった。
『向こうさん。ホボ壊滅です・・・・』
溜息混じりに更級が報告した。
『おいおい。早いな』
『相手がメチャメチャやってくれましたからね』
『お前はそう言う能力だからな』
どうやら、外は粗方片付いたらしい。後は残った白衣たちを根絶やしにするだけ。
「じゃあ、各自状況報告お願い」
『爆弾工作は殆ど設置し終わりました。医研内部は戦争屋の吹き溜まりって感じです』
『裏口の殲滅は殆ど完了。それと、外の倉庫で大量の重火器発見しました。壊しておきましょうか?』
「そう。こっちは今から内部に入る。神丘君は内部調査しながら工作を続けて。更級君は指令に武器の押収を頼んで、二人とも何かあったら、逐一報告を。作業が終わり次第、見つけた奴らを寝かせといて。了解した?」
『了解』
『わかりました』
各自、お互いが見えないところで、動き始めた。
(さて・・・、ここからが私の本番ね)
意識を更に高める。
この中で再び紅い地獄が始まる。
今度こそ、復讐を果たす。
醜悪の根源。私を狂わせた憎い男。生きているかもしれない、慰神宗次を殺し、その後継者と言われる、今の医研を操る御絨碍も殺す。
ここに関わる全ての者が地上から消えた時に、復讐が果たされる。
憎しみと怒りと哀れみの激情を深紅に纏って、進みだす。
「入る。神丘君」
『なんでしょうか?』
「暫く店はお休みだから」
そう言って、自分のマイクを遮断した。
神丘はアルバイトの子なのだ。店が壊れては、アルバイトに来させる意味がない。
『マスターこえぇ・・・・・』
通信を切った訳じゃないから、向こうの声は確り聞こえる。
内部は、昔のように白い。
何処にもある病院のように、清潔感を感じさせるためにそうなっているのだろうけど、ここが病院としての機能は全くない。医療実験が主なためだ。だから、患者はいない。いるのはモルモットだ。
廊下を進む。前と構造を変えていなければ、人体実験をしているのは地下になるだろう。
視界に入った白衣たちを撃ち殺しなが地下への入り口を探す。
『戦争屋は白衣に成り代わってます。武器大量所持』
『指令から。『消防に見せかけて、作業班を寄越す』だそうです』
イヤフォンから随時、二人の報告が入ってくる。
撃ちつくした弾倉を捨てて、新たな弾倉を再装填して、廊下を曲がる。
見らずとも、向こうの殺気が伝わってくる。
身体を乗り出すと同時に、こっちも向こうも撃ち始める。
一発目が一人の頭に命中する。綾には一発も当たらない。
向こうは残り五人。隊形を獲って、効果的にマシンガンを連射してくる。
綾は飛び出す前に初速をつけている。それを更に走って加速させる。敵との距離は20mほど。
距離的に銃よりもナイフで近距離戦がいいと判断する。投擲ナイフをコートから抜いて、左手の指と指の間に四本挟む。
投擲、後方に立二人の額に二本ずつ突き刺さる。
距離10m地点。壁を蹴って更に走る。
敵の目から綾が消える。撃つのをやめて、三人が綾を探し始める。
壁を走り、天井を蹴って跳躍。敵の頭上で刃渡り15cmの大型のナイフを足に巻いた鞘から抜刀、斜め回転で、二閃。
始める瞬間には前線中央にいた白衣姿の尖兵を残して、両脇の二人の頭が縦に割れた。
着地の瞬間、ナイフの刺さっている二人の首を横回転の勢いで切断。
残った真中の一人が後ろを振り向く。
後ろのナイフが刺さっていた二人の首が消えている。二人が首から血潮を噴出している間に、血色の女が逆手にナイフを振りかざしている。
「おおえげっ!」
応援を頼む、と叫ぼうとした瞬間に、声帯は裂かれ、頚動脈は切られ、頚椎は断たれた。
白廊下に首が三つ落ちた。
更に奥から弾丸が飛来する。
振り向き様にナイフの背で弾く。更に撃ち返す。正確に飛んできた弾の軌道を遡り、相手の頭が吹き飛ぶ。
更にその奥にはまだ何人もいると判断する。
綾は駆け出し、敵のいる場所に急接近する。
両足で壁を蹴って、垂直に飛ぶ。
窓ガラスを割って、部屋に飛び込む。
事務室らしい。机が並び、その上には書きかけの書類などが散布している。
その部屋に十人ほどの白衣がいる。ここに誘い込んで迎撃するつもりだったのだろうか。
ならば、不意にガラスを割って飛び込んだことによる、彼女の撹乱は効果的だ。ガラスが割れたことに意識が行く。
正面の視界に入った白衣を撃つ。
「先ず一人」
机に右手から着地。反発を利用して更に部屋の中央へと飛ぶ。また宙に浮く瞬間に発砲。
「二人」
ムーンサルトのように空中で身体を捻って、部屋にいる白衣の位置を確認。
ホワイトボードの前に二人。窓側に三人。棚の前に一人。廊下側に一人。一番近いのは・・・
部屋の中央に伏せている奴。
先にホワイトボードにいる
二人に撃つ。
「三人、四人」
着地の瞬間の縦回転。低空のサマーソルト。
中央にいた白衣の身体が浮き上がる。顎の骨が砕けて顔が拉げる。
床に這いつくように着地。左手のナイフを逆手から正手に持ち替えて、ダッシュ。刹那に浮いている白衣の身体に突き刺す。
「五人」
突き刺した身体ごと、棚にいる奴に突進する。
ナイフを更に突き出して、刃先を貫通させる。棚に押しやって、更に深く刃を押し込む。
背中から突き出た刃先が、心臓を抉る。
「六人」
二人の白衣を串刺しにした。
刃先に刺した奴からは、直ぐに抜ける。しかし、もう一人は柄が埋まる程に刺していて、抜けない。
窓側と廊下側から銃弾が撒かれる。
窓側に串刺した白衣の身体を持ってきて、盾にする。廊下側から飛んできた弾は振り向く回転だけで避けて、撃ち返す。
左目に当たりって、脳に弾丸がとどく。
「七人」
ナイフに刺さっている白衣に銃弾がめり込んでいく。
その間に、ナイフを乱暴に引き抜く。白衣の腹からエグいものが飛び出てくる。
臓腑を撒き散らす白衣の身体に隠れる。
身体が落ちていくと、綾は低姿勢で移動する。窓側の三人からは見えなくなった。
机と机の合間を縫って窓へと近づく。
窓にいる三人の内、左側にいる白衣の死角から現れて、首筋を一閃。
「八人」
左脇の下から深紅の遊底が見える
間の一人の頭に銃口を向けて撃つ。
「九人」
交差した腕を戻しながら、最後の白衣に襲い掛かる。既にナイフの振る間合いにいる。
ナイフで首を絶ち、心臓をぶち抜く。
「十人」
部屋中の白衣を殺し終わる。
「そして、十一人」
窓の外に隠れているものに対して、容赦なく発砲。弾を撃ち尽くして、スライドストップが上がる。
数人の足音と共に、事務室の入り口とは違う扉が開く。奥は会議室だろうか。
開いた瞬間手前に投げたものが閃光を放つ。
綾の投げた村葦朝霞特製の小型爆弾が爆発し、事務室に入ってこようとした人間と、扉の向こうにいる人間の身体を、ズタズタにした。
「ここはもう終わりね」
マガジンキャッチを押して、空の弾倉を吐き出させ、右袖から新たな弾倉が飛び出る。
空中に放り出されたそれを、正確に銃把の中に収める。
神丘から報告が入る。
『東側の部屋におかしな階段発見』
マイクのスイッチをオンにして、命令する。
「そこには私が行くから、二人はそれぞれのルートをお願い」
『了解』
『了解』
また、マイクをオフにして歩く。向かうのは東側にあるらしい階段のある部屋。
西側から殲滅を始めたから、少し遠い。この後も何人も出てきそうだ。
それはそれで、探す手間が省けていいと、綾は思った。
三人それぞれ、白い廊下を歩いていく。
一人は、残虐さで血に染めながら。
一人は、爆発で辺りを焦がしながら。
一人は、何も汚さず静かに暗殺しながら。
白衣という白衣を男女関係なく、武装非武装関係なく、死体に変えていく。
生存する医研の人間は、残り地下にいる者達だけになった。
「アハハハハハッハ!凄いなあいつら」
モニターを見ながら、彼は楽しんでいた。
仲間が死んでいっているというのに、寧ろ殺されていっている仲間はどうでも良くて、殺している方に興味があるようだ。
「なんだよ。二人だけであんなに殺していくのか。MAKINAは容赦ないし、餓鬼のほうは周りが勝手に爆死していくしよぉ!おもしれぇ・・・」
「もう一人見えないけど、いるみたいだぞ」
複数のモニターの内の一つを少女が指す。
武装した白衣たちが標的を探して。こそこそと廊下を進んでいく。動きは、まるで軍隊のそれに似ている。さながら、訓練による精練された動きに見える。
しかし、その列の後方から、予兆もなしに彼らは倒れていく。前方が後方の有様を見て敵を探すが、誰もいない。しかし、探すだけ無駄だった。隊列を組んだ白衣は数秒で皆倒れた。
奇妙にも、倒れた誰からも血が流れていない。確実に死んでいるのはモニターからも分かる。額に黒い穴が開いているからだ。
「をぉおお!なんてホラーだ。誰もいないのに、コイツラ勝手に死んでいったぞ!」
「騒がしいわね。あんた」
少女は侮蔑を篭めて、吐き捨てた。
「これが黙ってられるかよ。生で見てみてぇ」
「無駄死にするわ」
確かに無駄死にするのは落ちだろう。モニターでみる彼らの戦力は圧倒的と言える。
しかし、彼らが持っているのは戦力と言うべきではなく、絶望的なまでの性能差がそこにあるように思える。普通の人間との彼らのポテンシャルの開きは明らかだ。
だが、それでも男は笑って少女に言葉を返した。
「そうでもないぞ。其れなりには抗ってみせるぞ」
そう言って、白衣の胸ポケットからフィンガーレスグローブを取り出す。
グローブをつけて、軽く屈伸。男の体がジャラリと音を立てる。
「へぇ」
「そろそろ来るよなぁ」
男は顔を綻ばせて、モニターを見た。
「前に見損ねた地獄を私に見せてくれ」
何時ここに来るかは、お楽しみと言うことで、男は監視カメラからの映像を全部切って、待ち受け画像にする。
誰かが趣味で作った、回転するロゴタイプには『Project MAKINA』と書かれていた。
「さあ、楽しませてくれないか?MAKINA」
西側の通路から東側へ行くまでに何人も殺したが、階段を下って地下に向かうと、誰も出てこなかった。
「肩透かし・・・ね・・・・」
一人、愚痴を吐いて綾はさらに奥に進んだ。
また下へと続く階段を見つけた。
おそらくこの下なのだろう。御絨碍と朝霞を通して見た心視の場所は。
薄暗い階段を降り、下った先には扉が一つだけあった。
部屋の扉が開いた。
「よお。待ったぜ」
綾が開いた扉から現れると、男は待ちわびたと言う様に、両手を広げて数歩綾に近づいた。
部屋は随分広い。そして随分と悪趣味な部屋だと綾は思った。
無数の水槽に無数の首。全ての首が、意識なくとも生きている。高い天井から白色光が照らされて入るもの、水槽の液体がその光を色づけて、部屋全体が真赤になっている。
一番奥には大きな水槽が一つ。その中で昼間に会った少女が悠然と浮かんでいる。彼女は無言でこっちを見ている。
綾は目の前の男に先ず質問することにした。
「あなた。御絨碍ね」
そう決め付けた。
対し、笑い顔で
「そうだ」
と男は答えた。
「随分と余裕ね。流石、親玉ってことかしら。こんな悪趣味な研究をしている奴には、お似合いの役だわ」
冷えた目のまま、本音を言った。冗談ではない。
「それは褒めてくれているのか?嬉しいね」
「侮蔑と軽蔑よ」
右手の銃を構える。
「さあ、色々と話して。概要は浅崎から聞いている。でも、明確じゃないところは全部あなたの口から聞かせて頂戴。どうせ喋りたくてうずうずしてるんでしょ?」
御絨は肩を震わせて笑い言う。
「そうだぁ。お前と凄く話したいよMAKINA」
綾の手に力が入る。
こいつは私の昔を知っているのか?
「おいおい、何動揺してるんだい?」
私の心を読んだ?
「まあ、いいさ。じゃあ、話をしようか」
そう言って、御絨は一人勝手に喋り始めた。
「そもそもの始まりは、『医学で人が人を超える』と言うある男の願望から始まった。
男の名を、慰神宗次という。彼の目的は人間の肉体を強化させること。その過程へて出来たのが、MAKINA。お前だ。」
指を指されても、黙って聞いた。
「自分で分かるだろう?お前が尋常じゃない身体の作りをしているのは。
MAKINA。お前の身体は人間の出せる力の制限以上の力を出せる。
普通の人間は、自らの身体を守るためにフルに力を使おうとしても、30%までしか力を発揮していない。それ以上の力を出すと、筋肉や骨、はたまたは内臓にまでも重大なダメージを与えかねないからだ。
じゃあ、何故お前がそれ以上の力を出せて、身体が壊れないのか?
それはだ。お前の身体の自然治癒力と、肉体強度が異常なまでに高いようになっているからだ。これには、慰神も苦労したらしい。医研を浅崎と創設してから、ずっと人体実験を繰り返して、失敗し続けた。お前の前に何人もの人間が未完成のまま壊されたってよ。」
綾は黙って話を聞く。
この話は彼女にとっても知っておきたかった事だ。
「で、お前が出番になった。その身体は生来のモノではないのは知っているだろう?首から下は全部作り物だ。細胞の培養と、元々強い内臓や筋肉を持って生まれた子どもの一部を採取しては、強化加工してお前に移植した。
移植の技術と知識に関しては、浅崎や平沼が豊富にもっていたのを慰神が盗みえたそうだ。
慰神は餓鬼だった。お前の身体の強靭さに惚れ込んでお前をプロジェクトの主体にした。
そりゃ、お前が選ばれるさ。なんてたって、数十メートルも落下したバスの中でお前だけ生きてるんだからな。それも慰神の仕業だ」
「やっぱり、あの事故はあなたたちが起こしたのね」
「ああそうだ。しかも、慰神直々にバスを運転して、起こしたものだ」
あの運転手が慰神宗次だったのか。
「ふふふ。おどきだろう?
そんでもって、お前が『人を超えた存在』として完成したわけだ。だけどさあ、慰神の部下どもはどうしようもなく馬鹿でなぁ。無駄だっていうのに、お前をリハビリさせずに数値の計測に使った。
あんなにされてよく壊れなかったよな。おまえはさぁ・・・。
まあ、原因はあいつが、別のプロジェクトの始動の備を進めていたからだ。
留守中に部下が勝手なことをして、挙句お前を連れ出そうとする奴まで出てきた。」
その連れ出そうとしたのが、穂畝命だ。
「帰ってきたときに、ちょうど逃げている途中だったから、そいつを蹴り倒して、お前に銃を撃たせた。だったよな?
でもなあ、ここからまた問題だった。
又出かけた後で、施設がヒッチャカメッチャカにされてんだしよ。でもって、MAKINAもいない。
お陰で、プロジェクトは長い間休止。浅崎の研究部所だったここの施設で随分と長い準備に入った」
御絨は一旦そこで、話を切った。
「なんとも話が長いわ。浅崎もそうだったけど、あなたたちって、語り癖でもあるの?」
「かもしれねぇ。下を納得させるのには演説力がいる。ヒトラー並にあれば、善悪とか関係無しに人を従えられるのも確かだ」
確かに、ナチスを率いた大総統アドルフ・ヒトラーの恐ろしさは、軍事政権での権力よりも、彼独特の演説力で国民を戦争に誘導したことだろう。
「ところで、あなたは何時からこのプロジェクトに関わっているの?話を聞いていると、大分前から携わっている感じがするわ」
綾の質問に御絨は軽く答える。
「ほんの数年前からだよ。まあぁアバウトに言えば、続きのプロジェクトが本格始動し始める少し前からだ。慰神に代わって全体の指揮を執るのが俺の役目になってたよ。労働するにはもう大分歳だからよぉ。だから、慰神の知識を基に、俺が指示を進め、更に医研全体で研究を進める。大体、そんな構造で今まで動いてきた」
確かにそうだろう。浅崎と医研を作った慰神の年齢は老年に達していた。
「そう。じゃあ、今回のプロジェクトは一体何なの?私の後釜を創ろうって訳じゃないみたいだし。だったら、誘拐を起こしたり、臓器の密輸をする必要は全くないわ」
「ああアレは成り行きだな。てか、俺の指示じゃねえぞ?ありゃ平沼がいい臓器の欲しさにしていたことだ。あいつもプロジェクトの上には居たけどさ、平沼は昔のお前の後釜を作りたがって、失敗しまくり。ばっかだよなぁ。逃がした魚にまだ執着して、独走した結果」
「私に撃たれて死んだ。でしょ?」
冒頭で確かに綾は、平沼を殺している。
「やっぱりお前がやったのか」
御絨は一人で合点した。
「やっぱり?」
「唯の勘だ。平沼がアレだけ執拗に臓器を手配してんのに、取りに行ったあいつの部下は帰ってこない。で、痺れを切らして、護衛をつけて内臓を取りにいったら、自身も帰ってこれませんでしたとさ。それで、俺は直感した。何十件も平沼が手配をしていたのに、それを邪魔する人間が居る。しかも、残忍でしつこいとなると、お前だとしか考えれなかった。
それで、逃げ出した浅崎をエサに捕まえて、でもって同じ時間に複数の適当な取引を配置した。それぞれの取引場所に小型カメラを設置してお前がヒットするのを待った。そしたら、浅崎が隠した首の一つがあいつの所に届いて、直ぐにお前が現れた。そんでもって、マトリックスさながらの動きをする人間がカメラに移っている。お前がMAKINAって確信したよ」
綾は眉を顰めた。カメラに気付かないとはなんて失態だろうか。
「じゃあ、私の店を襲ったのは・・・」
「お前をここに招待するためさ!」
全身に力が入り、歯が軋む。私をおびき寄せるために、私の周りにまで手を出したのかと。
その姿に笑みを浮かべて、御絨は話を続ける。何時撃たれるのか知らないのに、彼には苛立たしい程に余裕が伺える。
「じゃあ、今回のプロジェクトを紹介しましょうか」
そう言って、御絨はまた語り始めた。
「人間は生物界での進化の頂点に居る。しかし、不完全要素が幾つもある。病原菌に体内を蝕まれたり、生活が原因で病気を引き起こす。小さな怪我でも時には命に関わる。他の生物と比べて、優秀な割には脆弱。それが人間だと考えている。
それでは、人をより『完全な存在』にする方法は何かと考える。
更に人を進化させるのはどうにも時間が掛かり過ぎる。ならば、人間の脆弱な部分を強化してやればいい。
一つは身体の強化。より頑丈な肉体を持った人間を作り上げること。そして、出来たのがお前だ。
そして、二つ目が・・・」
御絨は後ろの水槽を向いて言う。
「こいつだ」
巨大な水槽に浮かぶ少女のことを言っているのだ。
「こいつは脳の制限率を強化している。人間は身体にも脳にも制限がかかっている。それはさっき言ったように身体を守るためだ。
しかし、そのお陰で脳の機能は殆どの箇所が使われていない。ならば、進化の可能性が高いのは脳が最も高い。脳の質量を増やすのではなく、質を上げることによって、人間の境地を超えるようにように、こいつの脳は作られた。
つまり、―――」
それは誰もまだなしえない神の技術。
「人間の脳を培養強化して、人工的に脳を作り出した。その結果、プロジェクトの集大成であるこいつが生まれた」
「なっ・・・・・・」
流石に、綾も声が出なかった。
新たな生命体をこの男が、医研が創造した。
試験管での卵子と精子の結合で生まれたのではなく、完全なる部分生成で新たな脳を作り上げたのだ。
ならば、この少女は人間ではなく別の生命体であると言っても過言ではない。地球に存在する第二の知的生命体がここにいる。
「いいね。驚いてくれた。詳しくは偉業秘密だと言いたいけどね。特別に材料だけは教えてあげよう。
分かるとおり、この部屋中の首の脳細胞と、浅崎の孫の身体が母体だ。ここで必要となったのが、浅崎の移植技術。脳移植を完成させたる為に、試作の脳を提供して踊らせた。
その技術を盗んで、こっちの研究に結びつかせる。
で、残った孫の首を浅崎に見せたら、返せとせがみやがってな。まあ、首も浅崎も用済みだからいいんだけどよ。殺し屋つけて囮になってもらったのさ。アハハハハ」
浅崎禎明はどう思ったのだろう。
自分の培ってきた技術が、いつの間にか自分の孫をあんな目に合わせしまったことを知った時は―――。
「やっぱり、あなた下衆ね・・・・」
綾が唸る。
「なんとでも言うがいいさ。結局のところ私は神と同じ存在になったのだ。
分かるかい?MAKINA
このプロジェクトは私が神に等しい存在になること。新たな生命を創造して、私が『完全な存在』となる。
Deus ex machinaから命名して、この計画を私はProject MAKINAとした!
先ずお前を作り、プロジェクトの第一成功の意味を篭めて、お前をMAKINAと呼んだ。
そして、こいつが完成させた私は。神となったのだよ」
身勝手に語り尽くした彼は、大笑いしながら踊る。
その笑いを聞いて、綾は色々と冷めてきた。身も心も考えも。
この男は狂気と異常の塊だ。自分の為に、多くのものを犠牲にして、目的を果たした最悪の人間だ。いあ、人間の皮を被った別の何かに思える。
多くの人間がこの一人の男の為に死んでいった。綾の実の家族、バスに乗り合わせた人たち、無差別に実験台にされた子どもたち、技術を悪用された浅崎禎明、材料として首だけにされた朝崎殊那、多くの白衣たちもその駒に過ぎなかった。
そして、兄の穂畝命も。綾自身も。その子も――――。
「最後に聞きたい・・・」
綾は顔を伏せて、訊ねる。
「なんであなたたちが、武力集団を抱えているの」
これはS.I.S.O.として、
「ああ、アレは平沼を伝に勝手に入ってきたヤツラだ。平沼の人体強化の実験台としてだ」
次は綾自身として、の言葉。
「じゃあ、何で私の店を壊したのよ!」
綾がキレた。
「ああ?あれは慰神だろう?」
御絨は惚ける。先ほど答えた事だというのに。
「浅崎から慰神は死んだと聞いた!店を壊したのは私を誘き寄せる為だとあなたは言った!店を壊したヤツラは慰神に頼まれたと言っていた!辻褄が合わない!」
声を荒げて叫んだ。叫びすぎて、息が切れる。
肩を上下させて、荒くなった息遣いのまま、男に言う。
「御絨碍。あなた、慰神宗次でしょ!その口調!忘れるものですか!先生を、兄さんを殺したあなたを!」
そう言われても、笑いを留めるだけで、男の笑い顔は崩れない。
少女は演技が下手だと思った。
男は肯定して言った。
「そうさ!私は慰神宗次だった男だ。脳移植の技術を使い、新たな身体を得た。そして、『死』を事実上の概念でなくした存在。
前の名前から『シ』を取って、名を御絨碍とした!」
『イガミシュウジ』から『シ』を取る。その組み換えが『ミジュウガイ』。
綾は荒くなった呼吸を整える。
そして、宣言する。
「あなたは私を!兄を!多くの人を弄んだ!」
任務だろうが、復讐だろうが、やる事は変わりない。
「だから、死になさい!」
綾の一言で二人は同時に動いた。
Deus ex Machina
復讐を終わらす最後の殺戮を開始する。
同時に動いたように見えたが、コンマ数秒早く動いたのは綾だ。身体の作りの分だけ、予備動作も基本動作も常人の数段早くできる。
御絨碍。こいつだけは簡単に殺しはしない。平沼にしたい上の加虐を―――。
足を狙って撃つ。相手の右脹脛。
銃弾が地面を穿つ。
(外した?!)
正確に狙ったはずだ。相手の動きもタイミングも合わせた。
「考え事をしていいのかな?」
御絨が嘲笑っている。
向こうからはまだ仕掛けてこない。いや、仕掛けるがまだ予備動作だ。懐から何かを投げるのか。
確かに、考え過ぎたのかも知れない。感情で動きがブレたのかもしれない。
なら、単純に殺すことに集中すればいい。
頭を狙えば一発で終わる。
照準を額に合わせて引き金を引く。
銃口が銃声を発する刹那。御絨は首を横に曲げる。弾丸は彼の髪を数本持って行っただけ。
「実に、切り替えが早い」
避けられた。
御絨が攻撃を仕掛ける。手に握った無数のメスが散弾のように飛んでくる。
「くっ!」
飛んでくるメスを避けながら、必要限だけナイフで弾く。
メスが通り過ぎると、御絨が既に自分の間合いに入ってきている。
「遅いぞ!」
左手に握られたメスが顔に迫ってくる。
身体を後ろに引いて避ける。ナイフで応戦。首筋の頚動脈に向けて一閃―――。
右手の三本のメスで受け止められる。
ならば銃で腹を――。
既に左手のメスが、綾の右手の軌道の先にある。
床を蹴って後退。距離を離す。
「やっぱり行動が読まれてる?!」
自分の行動の先々で先手を打たれている。
行動への早さは確かに綾が勝っているが、読みの速さは向こうが一抜き出ている。
御絨もまた能力者なのか。なら、その能力は【読心】か、【先視】か。
「見当違いなことを考えていないか?MAKINA」
やはり、こっちの考えを読んでいる。
「あなた、人の心が読めるのね」
綾の言葉に対し、御絨は笑った。
「はは、それは勘違いだ。私には人の心を読む力なんてないよ」
「じゃあ、何故私の思考と行動を先取れるの」
「種を明かすとね。私の能力は【脳波を読み取れる】ことだ。脳が行動を起因するときの脳波を読んで、相手が起こす動作の先を取っているまでだ」
「じゃあ、感情の変化も読み取れるわけね【読心】も【先視】もその応用で使えるものだと言っているのかしら・・・」
「それはどうとも言えないが、これも実験の結果に習得したまでだ。脳波の研究を続けて、どういった脳波が人をどう動かし、どんな感情を作り出すのか。データとの検証を繰り返して、私はある程度の人間の思考と行動を読めるだけだ」
「そんでもって、身体も強化してますか・・・」
明らかにそうだろう。超人的な綾の行動速度について来ている。それどころか、半歩程先を行っている。
「老いた身体を強化するのは、余りにも無意味だったからな。そのために身体を入れ替えたといってもいい。これも研究の内だ」
彼は自分の肉体すら、研究材料でしかない。
「ホント、イカレ過ぎ!」
頭に向けて、一発撃った。動作を最低限に抑えたクイックショット。
当然のように避けられる。
「おいおい?何してるんだMAKINA。無駄撃ちは良くないぞ」
余裕の笑みを浮かべて、御絨が言う。
確かに、無駄撃ちだ。言葉が本当かどうか確かめる為にやったまでだ。
脳波で行動が読まれてしまえば、先手を打って動いても、常に後手に回ることになる。
人間は情報を感覚器官で仕入れ、脳で解析して、身体の運動を促すまでに、一秒かかる。その一秒の誤差を脳が修正して、人は普段の生活が送れるようになっている。いわば、人は自分の感じている世界の一秒前の世界で生きているようなものだ。
【脳波を読み取れる】ならば、感情の変化は勿論のこと、行動前の変化も分かる。故に、相手が一秒後に何をするのかを予測できる。
どんなに早く動ける人間でも、その一秒のラグを生めることは出来ない。それは今の綾でも同じ。御絨のこの能力は厄介なものだ。
「仕掛けないならこっちから行くぞ!」
御絨が間合いを詰めて、攻めて来る。能力を駆使し、綾の行動の先を読む。来る攻撃は避けて、相手の防御を掻い潜る。
綾も身体を加速させていく。
来る攻撃を反応の速さで避けていく。失敗する攻撃も切り返しと動作に緩急をつけて、相手の読みに綻びを作ろうとしている。
互角に二人の殺り合いは、何分かで、御絨が押しているかのように見える。
「どうしたMAKINA」
無言で応戦する綾に対し、御絨は饒舌だ。
「お前と殺し合うのは実に楽しい!もっと楽しませてくれ!」
メスを白衣から抜いて投げる。
綾は飛んでくるメスを掴んで、投げ返す。
「お前はこんなもんじゃないだろう?」
帰って来るメスを両手のメスで弾く。
白衣がジャラリと音を立てる。
御絨は有りったけのメスを両手に持った。それを頭上にばら撒く。
更にメスを取り出す。
「さあ!本気を見せてくれ!」
宙に投げ出されたメスが、重力に従って雨のように落ちていく。更に、綾へとメスが投擲される。前方と上方からの攻撃で、動きを封じられる。
上から落ちてくるメスを交わしても、その先で横からメスが飛んでくる。避けるにしても、頭上から降り注ぐメスの範囲も広い。御絨の目の前から、綾の背後一mにかけての扇状の範囲で降り注ぐ。
それは正に、御絨の必殺だと言える。
メスが降り注ぐ。
さて、メスが綾の頭の高さまで落ちてくるのに、どれだけの時間があるのだろうか。
秒にしてもレイコンマをつけることになる。その短い時間が過ぎれば、避けようもない程のメスが、雨さながら落ちてくる。
攻撃範囲から出るのが尤もだ。しかし、その短い時間にそれが出来る人間は居るのだろうか。
(人をバカにし過ぎ・・・)
綾からしてみればそれは。
(不愉快・・・)
欠伸をしていられる位に長い時間だ。
(本気で・・・)
速度が、読みを上回る。
(殺す!)
綾が人間の視力の解析よりも早い速度で迫る。御絨の目からすれば、綾が、ワープして来た様に見える。
「なっ!」
今まで饒舌だった御絨も驚いた。
彼女がこっちに殺しに迫るのは、彼女の脳波の変化で読んでいた。しかし、脳波を読みきる前に綾が迫ってきたのだ。
左手のナイフが煌き、右手の銃を赤く映す。
ほんの暇もないが、彼女は言った。
「私の能力を更なる身体能力の強化だと思っているでしょう?違うわ。私の能力は・・・」
「くっ!」
咄嗟の迎撃に投げようとしていたメスを薙ぎ払いに変える。
が、メスを握った右手が二の腕から、指先へとバラバラになっていく。
気付いた時にはもう右腕がゴッソリなくなっている。
人にはおよそ『一秒』のズレがある。
五感で情報を認識し、脳で動作を起因し、行動に至るまでの時間が『一秒』ある。そのズレを脳が修正して、意識と動作を同時にしているかのように見せている。
幾ら身体を鍛えようとも、その『一秒』のズレを縮めることは出来ない。
目の前に銃弾が飛んできたのが見えても、避けるのはその『一秒』後。避けるまでに、銃弾は『一秒』分の距離を詰めてくる。
綾にはそのズレが限りなく0に近い。
それが、彼女を今まで生かしてきた力でもあり、彼女の肉体を最大限まで引き出す能力。
十年前の脱走の際に覚醒し、繋がっていなかった身体の神経を繋いだ力。
それは―――、
「【神経伝達の光速化】よ」
更に、衝撃で身体が揺れる。脇腹が綾の右手で削り取られて消えた。右手から離れた銃は宙に停滞している。
更に両足が太腿から分かれる。バランスが壊れて、残りの身体が宙に浮く。
まだだ。足を切った一閃からジグザグに、下から上に身体が三角を作って、壊れていく。
そして、意識が首だけになる。
「・・・そんなぁ!・・・MAKI・・・NA・・・」
全ての時間が彼にもスローに感じる。
宙に有った深紅のベレッタが綾の右手に戻っている。
引き金を引きながら、復讐の相手に別れを告げる。少女の時、ここで繰り返し言ったその言葉に付け加えをして。
「私はMAKINAじゃない」
撃鉄が雷管を穿ち、遊底が滑り排莢口から空の弾莢が飛び出して、銃口から弾丸が放たれる。
「穂畝綾よ」
銃声と共に、慰神宗次。名を改め、御絨碍の頭が空中で真赤に咲いた。
メスの雨が床を鳴らす。
「何か空しいわ・・・」
銃を構えた右手を下ろす。
目の前の惨殺体が切られた肉片から大量の血を吐き出していく。血の池に浮かぶ肉片は人間だった頃の原型を全く留めていない。肉に付着した服の破片が、これが人であったと語っているだけ。
終わってみると、あっけないものだと思う。嬉しくもなんともないし、達成感もない。唯空しい。これが復讐を終えたということなのだろうか。
「すっきりしない」
このために、どれだけの時間を費やしていたのか。どんなに人を殺してきたのか。
時間も数も膨大にこなした。
そして、今。多くの人を狂わせた人間が、私の手で消えた。
この男の欲望は達成されていたけど、その野望を阻止することではなく、私はその命を止めることが目的だった。
幾多の夜を駆け巡り、この男にたどり着くことが出来た。
『医研敷地内に人間はもういないみたいです』
『処理班も到着しました。見つけた武器の回収済みです』
マイクを入れる。
「こっちも終わったわ。二人ともお疲れ様。私はまだ残るから、二人は先にテレポーターに送ってもらって」
『了解』
『お疲れ様です』
「おつかれ」
二人と通信を切る。
これで、このミッションは終了。
後のことは、処理班がしてくれる。やることと言ったら・・・。なんだろう?
「なぁ〜に、物思いに耽っている?」
頭に直接少女の声が響く。
相変わらず、少女は悠然と赤い水槽に浮いている。
「何でもない。単に一つの目的が終わっただけで、何でもない」
「何でもないか。アレだけ血腥い歩き方しながらここまで来て、「なんでもない」ですってね・・・」
少女は笑いもせずに、寧ろ、哀れむような表情を浮かべている。
「見ていたんだ」
「見ていた。そのモニターで。あなたの通った道が途切れもなく此処まで、真赤な足跡付けて行っているのを」
モニターには終わって、誰も後を継ぐことのないProject MAKINAのロゴがクルクルと回っている。
少女が言う。
「結局、わたしたちはここで作り出されて、意味はあったのか・・・。わたしたちが出来るまでに沢山の人が屍を積み上げて、その一番上にわたしたちが出来たけど、わたしたちは出来たという結果だけが、わたしたちなの」
「そうね。作り出して何をするわけでもなく、作れば満足してしまう。それで、自分を神と名乗るのなら、とんだものね。
でも、私を利用したモノも居るのは事実。ここは医療を開拓するという名目で、作られた医者たちの自己満足のための施設でしょうね」
「「ほんとつきあってられない」」
言葉が重なった。
互いに表情を綻ばせる。
少女が訊いた。
「これから、あなたはどうするの?」
「暫くは冬休みにする。こっちの仕事も終わったし、店も壊れているし。何よりも働きすぎ。有給休暇したいわ」
本音。ついで、私からも訊く。
「あなたは?」
「生きるのは面倒だけど・・・」
「じゃあ、もう一回逝っとく?」
少女は首を振った。
「殊那のことがあるから、あいつに身体返して、其れなりに人生送ることにする」
水槽が割れて大量の赤い液体が床に流れる。
少女の足が水槽に着き、中から出てくる。
「ああ、これからながいなあぁ人生」
そんなことを言いながら近づいてくる。
少女に対して私は忠告した。
「とりあえず、処理まで時間あるから、服着てきなさい。裸じゃ寒いわよ」
少女は嘆息して言い返した。
「はあ・・・、だから生きるの面倒なの」
数分後、煙の上がっていた、医研敷地から爆発が起きる。
爆発の炎で敷地一体が燃えて廃塵と化していく。中に居た白衣たちの遺体もその中で、焼死体と変わっていく。
総合医療研究所は火災事故により研究場所と人材を失い、事実上消滅した。
以後、医学会に彼らの功績が世に出ることはなかった。
Merry Christmas
「はあぁ・・・・・」
疲れた。本当に疲れた。
連日夜中に駆り出されて、睡眠時間が削られて、ずっと寝不足。
店が壊れているけど、家の方は大丈夫みたいだった。だから帰ったら直ぐに寝たい。
「あああ・・・店壊されたんだっけ・・・」
色々と終わったけど、自分の家の後片付けが最も大変だ。壊された分の店を建て直したり、食品の仕入れを止めたり、神丘君以外のバイトの子にも休業連絡入れたり、休業理由も考えて、地域に口回ししないとだし、もうやることだらけ。
イライラしてきた。
「うわぁああ!もう!何てことしてくれたのよあいつら。ミナゴロシにしたのにぃ!もう一度頭ぶち抜きたいっ!」
喚き終えて、溜息を吐く。
「はあぁ・・・あいつら死しんでも私をムカつかせる」
喚いて余計疲れた。もうさっさと帰ろう。
誰もいないクリスマスの夜を綾はトボトボ帰路に着いた。
家の目の前に着いた。
「・・・・・・・・」
昼間、大量の銃弾を打ち込まれて、通気をよくされて、ロケットを打ち込まれ、オープンカフェにされて、瓦礫残骸だらけにされた店が此処にある。
はずなのだが・・・・・・。
「何で直ってるの!」
すっかり元通りになっていた。
おかしいおかしい。なにかがおかしい。
考えろ私!幾ら工作が得意なS.I.S.O.でも壊れた家を半日で元通りにするのは無理だ。そんなことに特化した能力者もいない。
じゃあ、【幻惑】あたりの能力で、いたずらされている?
いやいや、そんなことする必要ない。てか、するようなお茶目なところじゃないって。
え、なにじゃあ、疲れすぎて幻覚でも見ているの?店が壊れている事実を、自分で自分を騙しているの?それなら、慰安料貰いに行くわ!
「でも、ほんものっぽい・・・」
入り口まで近づいて、ドアを叩く。自分の家の戸を叩くのは何か変だけど。
コンコン
「本物だ・・・」
建物に本物も偽者もあるのだろうか。
店の明かりは消えている。掛札もclosedで、ケーキを買いに行く前とそのままの感じだ。
ドアノブに手を掛ける。
何時もの乾いた鈴の音がする。
「開いてる・・・」
そっと、ドアをあけて暗い店の中に入ろうとする。
いきなり電気がついた。
バンバンと破裂音が響く。
「「「メリークリスマス!」」」
「あがっ、いいい、痛い!止めろ!」
クラッカー音が鳴り止む。
店内は飾り付けられとテーブルには食器が並んでいる。自分の知っている人たちが、ドアの周りを囲んでいる。
その正面に立っていた人物を・・・。
洋一を組み伏せていた。
「・・・・なにしてんのぉ」
「あっ・・・」
朝霞に言われて気付く。顔が熱い。
「ちっちがう!なんかいろいろびっくりしちゃって!それで!」
反射的に動いて恥をかいた事を、必死に弁明しようとする。
「そんなことは良いから・・・、早く腕を放して、どいてくれ・・・」
「ぇえ〜、なんかクリスマスだし、綾の仕事も一段落したし、世代ちゃんがS.IS.O.の一員になって、何か色々めでたいので、夜遅過ぎますが、ご近所さんに迷惑にならない程度に騒いでください。乾杯」
「おいおい。洋一、それでは音頭にならんぞ」
「やる気がないだけです。では改めて、カンパーイ」
「「「かんぱーい」」」
各々のコップを掲げて、乾杯する。
メンバーはホボ大人だけだけど、お酒を飲みたがる人が一人もいないので、全員のコップに炭酸ジュースが入っている。
結局何をやっているのかというとだ。
クリスマスパーティー兼打ち上げ兼歓迎会兼忘年会である。
メンバーは綾、洋一、世代、神丘、朝霞、指令の六人だ。
「なんか、指令がいるんですけどぉ」
朝霞が言った。
「うん?いて悪いか」
不機嫌そうではないが、ぶっきらぼうな答えが返ってきた。
「いあ、そうじゃないですけどぉ。珍しいと思って」
「息抜きにな。私も仕事詰めなんでな」
ショートケーキを食べながら、指令が答える。
指令にショートケーキとジュースは似合わない。
「洋一。何で壊れた店直ってんのよ?」
綾は洋一に、壊れた店が直っている真相を聞くことにした。
「ああ、それね。世代ちゃんが戻してくれた」
「なのです」
世代が敬礼して前に出る。
「え?戻したって?」
「世代ちゃんは時間を戻す能力があるんだ。その能力で、破壊された店を壊される前に戻したわけ」
洋一が変わって説明した。
「すごい能力ね・・・。助かったわ世代ちゃん」
驚いたが、それ以上に感謝で一杯になった。
「いえいえ。本当は少し能力が違うんですけどね〜」
とは言っているが、彼女が時間を操る力があるのは事実だ。
「でも良かったですね。店が直って」
神丘が話しかけてきた。
「ええ。神丘君も今日はお疲れ様。疲れたでしょう」
「ですね。長時間の能力使用は疲れます。お陰でしばらくガス欠状態かな」
カフェに有った食材で、自分が作った梅サンドを食べる。
「これでまたバイトしないといけませんね」
「ああ、それね。暫くお休みする。やっぱり疲れたし、年末くらいゆっくりしましょう」
「お。本当ですか」
神丘はやったと拳を握った。
「そういえば、更級君は?」
「あいつも来たかったらしいですけど、センター前の模試があるから無理だって」
「あら。残念ね」
「あれ?もしかしてここのウェイターさんですか?」
世代が神丘に訊いた。
「そうだよ。神丘って言う。今後宜しくね」
「折坂です。宜しくお願いします」
「世代ちゃん本当にS.I.S.O.に入ってよかったの?」
綾が世代に訊く。
「いいんです。これで、学校の無駄だらけの教育を受ける回数が格段に減ります」
「・・・なるほどね・・・」
世代は高校の勉強を嫌がっていたし。綾も学校の勉強は好きではなかったから、なんとなく理解した。
「その子は能力に発展性が見込めるからな。後々、重要な役を担ってもらうかもしれん」
とのことだ。指令曰く。
「ところでだ」
洋一が綾に話しかける。
「ことはすんだのか?」
医研との因縁のことを訊いているのだろう。
彼も彼なりに、この件については奔走していた。
「うん。お陰でさまで」
「そうか」
決着がついたことを理解してくれたらしい。
「なぁにはなしてのぉ?」
朝霞が割り込んできた。アルコールがないのに、出来上がっている感じがする口調だ。
「なんでもないわよ。それより、酒でも飲んだんじゃないでしょうね?口調が変よ」
「口調は基からですよぉ。アルコールは頭が悪くなりますから、飲みません」
といいながら、コーラをビールの様な飲み方で喉を鳴らす。
「まあ、あまり飲まないのが懸命だね。抜歯するときに麻酔が効かなくて悶絶するし」
「抜歯はホント痛いからねぇ・・・。ああそうそう。穂畝が連れてきた子さぁ」
「うん?浅崎殊那のこと?」
「そうそう。二重人格で、別人格が頭いいみたいだしでぇ、面白そうだから飼うことにしたぁ」
「飼うって、表現間違ってるわよ・・・」
人は飼うじゃなく、養うだ。
「じゃあ、シングルマザーにでもなる気?」
「そんなんじゃないけど、歳の離れた姉妹ってことでぇどう?」
「なんか、無理がないかい」
「大丈夫です。母が私を産んだのがぁ、十四の時だったそうです」
とんだことを暴露した。
「まてまてまてまて!」
「冗談ですよぉ」
にゃはははと笑いながら、お菓子を摘む朝霞だった。
皆、連日の仕事勉強締め切りで、疲れているのに朝までパーティーで騒いだ。どうせ今日は休みなのだから、朝帰って寝ればいいという考えの下でいる。
結局朝日が昇るまで、パーティーをし続けてしまった。
「それじゃ、皆お疲れ」
「片付け手伝わないでいいですかマスター?」
世代に訊かれたけど、手伝わせるつもりはない。
「いいの。店は閉めておくし、飾りだけ回収してくれたから、寝たあとで食器は片付けるから」
みんな疲れて、眠そうだ。
しかし、指令は眠そうに見えない。
「それじゃあ、みんなおやすみ。また飲みにきなさい」
じゃあと、手を皆上げて、それぞれの帰路につく。指令と朝霞は警察署へ。洋一と世代と神丘は住宅街の方へ。
綾は皆を見送って朝日が照っているのを眺めた。
「うっーーーーん。眠い・・・」
振り返って店を眺めた。
一度壊されたけど、養父母の建てたときからずっと続いている店がまたここにある。
復讐は終えてもむなしいけど、それに比べて、この店を経営し続けていくのは、なんとも有意義に思える。色んな人が着てくれて、沢山の人がコーヒーを飲んでくれて、何人もの仲間ができるこの店。
「養父さん。養母さん。兄さん。私はカフェをやっている方が向いているかな」
家を眺めながら独り言を呟く。
今日起きたら、墓参りでも行こうと決めた。
ドアを開けて店の中に入る。
カラカラと乾いた鈴の音が響いてドアが閉まると、掛札が揺れた。
そこに書いてある文字は――、
Café Clown Jewel
[Closed]